アンリ・ルソー

東京国立近代美術館でピーター・ドイグ(1959-)の個展を見た。

美しかった。

 

原色が強く見えるところもあれば、それは淡い風景のようにも感じられ、また実際にありそうな風景でありながらどこでもない風景のようでもある。幻想と現実感の狭間の繊細なバランス、そこには画家の「見る」という行為の奥深さが垣間見れた。

20世紀に複雑化されすぎた美術の世界をまた「絵画的絵画」に引き戻すNew Paintingの流れ、「21世紀的」とはこういうものか、と肌で感じるような絵画世界。

現代が誇る「画家中の画家」、という所以が分かった。

 

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ピーター・ドイグ「ガストホーフ・ツァ・ムルデンタールシュペレ」(2000-2002年、シカゴ美術館蔵)


美術史というのは、得てして「新しいものを生み出す者」と「昔は良かったと顧みる者」が繰り返して現れる。

 

交通と民族移動が盛んになり東方様式を取り入れるビザンティン様式が発達、これに反動してローマ式の建築を回帰、深化させたロマネスク様式が流行したのが10世紀~13世紀。その後、キリスト教終末論に押されて天国への渇望が大きくなり色彩の強い、尖った造形をふんだんに取り入れた芸術が13~15世紀に流行する。しかし、その後「こんな野蛮な文化はまるでゴート人の文化のようだ」としてこの美術を「ゴシック」と呼び、より均整のとれたローマ様式、ギリシャ様式の正統の復活を求めて「ルネサンス」が14~16世紀に登場する。ところが、その後に来るものはといえば、ルネサンス芸術や宗教改革の反動で、均衡や均整をより意図的に崩した、意匠、装飾の強い芸術が17~18世紀に出現する。古典を愛する人たちからはこれをポルトガル語で「歪んだ真珠」を意味する「Barroco」になぞらえて、「バロック」と呼んだ。

 

この傾向は近代までにも続く。

 

産業革命以降に、安価で大量生産される粗雑な日用品に囲まれた生活に嫌気がさして、又は旧来の生活とのバランスがとれず混乱を来して、旧来の美意識に異国風を取り入れた折衷様式「ヴィクトリア様式」や、手仕事の素晴らしさを見つめ直す「アーツ・アンド・クラフツ」運動が起こる。19世紀のこと。そして・・・

 

-特に19世紀末~20世紀初頭というのは芸術史の中でも最も面白い-

 

「カメラ」の発明により異国文化がより直接的にヨーロッパに持ち込まれ、中国風のシノワズリや日本風のジャポニスムが花を開く。と同時に、旧来の美意識であるロマン派や印象派から一歩進んで「そもそも芸術家は何をすべきか?何を見るべきか?何を考えるべきか?何を表現するべきか?芸術とは何か?」を多くの人が百家争鳴に考えるようになった結果、「新しい芸術」を意味する「アール・ヌーヴォー」や、古い伝統を否定し離れようとする「ウィーン分離派」、それにピカソ(1881-1973)らが活躍する「キュビスム」やマティス(1869-1954)らによる「フォービスム」、「未来主義」などが登壇し、ありとあらゆる「新しい創造」が試行されるのが19世紀末である。
その結果として20世紀の芸術、レオナール・フジタ(1886-1968)らが参画する「エコール・ド・パリ」やマルセル・デュシャン(1887-1968)、サルバドール・ダリ(1904-1989)らが牽引する「ダダイスム」「シュルレアリスム」、そして「アヴァンギャルド」(前衛)が生まれていくのである。

 

音楽で言えば、シェーンベルク(1874-1951)やストラヴィンスキー(1882-1971)が十二音技法、無調製、複合拍子を用いた音楽を生み出し、現代音楽への扉を大きく開けた時代である。

 


さて、アンリ・ルソー(1844-1910)。

そんな、芸術史の中でも最も大きな転換期である19世紀~20世紀の人である。

 

友人からのご紹介で原田マハ「楽園のカンヴァス」を読む。
お話は、アンリ・ルソーとその周囲、世紀末のパリに起きること、また彼の作品にまつわる美術研究家と美術館学芸員(キュレーター)の数奇な、あるいはスリリングな駆け引きの物語。
もしこの小説を読んでいないのであれば、以降はネタバレを含むことをご了承いただきたい。

 

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アンリ・ルソー「Moi-même(自画像)」(1890, プラハ国立美術館


この小説の素晴らしいところは、美術の世界に起きる様々な現象を「あぁ、ありそう」という感覚を持ってちりばめられていること、「永遠を生きる」ということの実感が具体的に描かれていること、そして何より小説として特に後半からラストに向けた盛り上がりとスピード感が読者を強い力でその世界へと引き込ませる。
美術世界を片目で眺める楽しみという点と、小説としての物語を読む楽しみという点とが、実に見事な融合を果たしている、素晴らしい作品だったと思う。

 

ただし、この本の最大の難所は「結局アンリ・ルソーという人の作った作品がなぜ凄いのか」が書かれていないこと。

 

例えばピカソを見てみよう。

それまで絵画というのはよくよく見たものの「一瞬」を切り取り、それをカンヴァスへと書き取る。カンヴァスに描かれているものは「一瞬」である。ところが、「見る」という行為には時間的な「長さ」がある。ゆっくりと長い時間をかけて見たものを、一瞬という時間にまとめて絵の中に残す。そこに「時間感覚のギャップ」がある。
ピカソはそのギャップを乗り越え、長く時間をかけてみたものを、その通りに絵に書き起こした。よって、本来同時には見えるはずのない顔の「正面」と「側面」とが同時に絵の中に出現した。そこ(絵の中)に今まで登場を許されることのなかった「時間の長さ」が発現したのである。これがピカソの革命である。「立体主義」を意味する「キュビスム」はここから来る。

 

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パブロ・ピカソ「泣く女」(1937, イギリス、テート・モダン所蔵)


では、アンリ・ルソーに戻ってみよう。

 

彼は素朴派(ナイーブ・アート)と呼ばれている。素朴派といって彼以外にぱっと誰かを思い浮かべるほうが難しいかもしれない。実に素朴に、まるで子供が描いたような絵を残している。正規の絵画教育を受けていない彼の絵は、原色的であり、平面的で奥行きに痩せ、ある意味のっぺりとしている。ところどころに遠近法による対象物の描かれる大きさの違いは崩壊しており、多くのものが「正面」を向いている。多種多様な植物が登場するが、木々に生い茂る葉の形はわりと一様的で、まるで絵本の世界のようでもある。故に、彼の絵の凄みを言葉に表すというのは、実はなかなかに難しい。

 

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アンリ・ルソー「La Bohemienne endormie(眠るジプシー女)」(1897, ニューヨーク近代美術館MoMA所蔵)


その感覚が、19世紀末のフランス芸術界で(ピカソや、詩人アポリネールのようなごく僅かの偉大な芸術家たちを除いては)上手いこと評価が得られなかったのは、理解に易い。ただ、我々は当時から今現代のこの時点に向かってくる芸術潮流を一通り知っているわけだから、当時と同じ評価を下すわけにはいかない。

 

ルソーは15歳でフランス軍に入隊し、メキシコ戦争に従軍、普仏戦争では軍曹にまでなっている。彼ほどの純真無垢な心を持った画家にとって、中南米のジャングルの色鮮やかな装飾性の強い植物、動物たちははまさに魅惑の宝庫、偉大なる先生であっただろう。普仏戦争の後パリ市の税関吏となり、そして41歳で「絵を描くこと」に目覚める。
以降、激動の世紀末芸術界で数少ないプロフェッショナルな芸術家に支えられつつ大衆の評価は得られないまま、赤貧の中絵を描き続ける生涯を送る。

 

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アンリー・ルソー「La Rêve(夢)」(1910, ニューヨーク近代美術館MoMA所蔵)


以前、初めてルソーの絵を見たとき、ベルギーを代表するシュルレアリスムの画家ルネ・マグリット(1898-1967)を思い出した。(いや、マグリットを見たときにルソーを思い出したのかもしれない。)

 

マグリットの絵は一見ありそうな雰囲気でありながら現実には存在し得ないものがある。

 

代表作「光の帝国」は夜と昼が完全に同居している。

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ルネ・マグリット「L'empire des lumieres(光の帝国)」(1953-1954, ペギー・グッゲンハイム・コレクション所蔵)


不思議な空間だ。その不思議空間に引き込まれていくような錯覚さえ覚える。

 

このような不思議空間を絵画の中に生み出すには、写実的であることの延長ではなし得なかったのではないか、ある種の見つめる目の「ファンダメンタル」化、描くことの根源へ立ち戻る作業が必要だったのではないか、と思うときがある。そこに、ルソーのような素朴派の絵画の存在、描くことへの向き合い方が少なからず影響を落としたのではないか、と想像すると、何だか腑に落ちる。

 

批評家ハーバード・リードはこう綴る。

「彼の生活にはこれといった出来事は何もなく、伝記作者は頁を塞ぐためにさまざまの逸話に頼らなければならないほどであった。これらの逸話はすべて一つの主題、彼の完全な素朴さということを例証しているのだ。私はことさら「完全な」という。(中略)ルソーが生まれつきもっている自分の性質を自覚し、それを倦(う)まずたゆまず培ってきたことは疑いないからだ。彼ほど純粋でない場合には、それはやがて衒(てら)いに終わってしまったであろうが、ルソーはいきいきとした感受性に恵まれていた。」
(「芸術の意味」ハーバード・リード・著、滝口修造・訳、みすず書房


他の画家が彼のような素朴派の「フリをして」素朴な絵を描こうとしたら、彼ほどの完璧さではないにせよ、描けたであろう。しかし、評価と釣り合わなければ簡単にそのスタイルを捨てることができよう。ルソーはそうではない、人生を最大限に生き、その間ただ真っ直ぐに「素朴」を貫き通した。ある種究極の「素朴」である。彼以外にそれを為し得た人物はいないだろう。

 

そしてその存在は、複雑になりすぎた美術を「絵画的絵画」へ引き戻す引力に大きく寄与しただろう、と思うのだ。

 

無論、抽象からポップから様々なものを包含していく21世紀美術潮流なんぞという巨象はさほどに安易に語れるものではないのだが。

 

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ジュリー・メレツ「Retopistics」(2001, Crystal Bridges Museum of American Art)


 

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トマ・アブツ「Installation view」(2018, Serpentine Sackler Gallery, London)

 

【参考】

www.artspace.com

 

しかし、デイヴィッド・ホックニーの作品などを見てみても、どこかそんな「絵画的絵画」への潮流を感じる時もある。

 

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デイヴィッド・ホックニー「芸術家の肖像画―プールと2人の人物」(1972)


そして、前述のジュリー・メレツやトマ・アブツや、その他のいろいろなものを見ても、現代アートの流れに「20世紀的なる複雑なアート」からの脱却があるようにも思えてくる。

 

そんな中にあって、ルソーのような人こそが「20世紀的なるもの」を「21世紀的たるもの」へ突き動かす陰の立て役者であったのではないだろうか、と思えてならないのである。