イッセー尾形「管理人」

社会の内側に‘’存在し続けている‘’不条理に光を当てた不条理演劇。20世紀後半を代表する不条理演劇の大家と言われる、イギリスの劇作家ハロルド・ピンターの作品「管理人」がイッセー尾形らによって演じられた。

 

イッセー尾形
木村達也
入野自由
ハロルド・ピンター作「管理人」


この記事では物語の結末まで記載していますので、あらかじめご了承ください。

ネタバレを好まれない方は読まないほうがいいかも。

 

物語はこうだ。

 

ロンドン。老人に散見される社会への批判的な態度と、特段に根拠の無い自信を持ち、しかしレストランの住み込みの清掃仕事に身を置く家なし老人デイヴィス。仕事の中での些細ないざこざでレストラン従業員と喧嘩になるところを、三十代の青年アストンが仲裁し、アストンはデイヴィスを自らのアパートに招き、泊める。アストンの部屋には仏像や使えないガス台、古新聞の束など、おおよそ生活感から離れたモノでごった返している。アストンはその中の壊れたランプを長々と修理し続けている。

 

翌朝起きるとアストンは出掛ける。デイヴィスは自分のような人間が一人で居るのはいけないと考え、自分も出ていくと言うが、アストンにここにいて良いと言われ、残る。そこにアストンの弟ミックが来る。ここは自分の家だと。アストンは居住者で、家主はミックであった。

 

やがて、アストンとミックはそれぞれに、デイヴィスにこの家の管理人をやらないかと声をかける。

 

2週間の後、デイヴィスはすっかり管理人になったが、アストンとの同居が続く。アストンが夜中に窓を開けるので、その寒さで唸るデイヴィスをアストンは眠れないと起こす。ところがデイヴィスはアストンが理由なく自分を夜中に起こす、嫌がらせを続けるとミックに訴える。話を聞かない、自分のことばかり話す(アストンは家をこれからどうしていくかという夢を語っている)、デイヴィスに見向きもしない、アストンは精神病院帰りだ!と騒ぎ立てる。確かに、家に置かれている物といいその行動といい、アストンの言動には理に適ってない側面があり、それは半分は正しいのかもしれない。

 

アストンはデイヴィスに管理人に向いていないという。他方、ミックはデイヴィスの語り口を信じデイヴィスが有能な装飾家だと思い込んでいたが、それが違うと分かり、出ていって欲しいと言う。かくして、二人から管理人は任せられないと突きつけられるデイヴィス。

 

ラスト。デイヴィスはアストンにもう一度一緒にやろう、と持ちかける。アストンはダメだと言う。窓に向かって無言になるアストン。「もし出て行けと言うのなら、出ていくよ。しかし、あたしはどうすればいいんだい?」アストンに投げかけるデイヴィス。アストンは無言。「もし出かけて行ってさ、あたしの書類(自分の身元などに関する証明書)があったら…」長い沈黙。終演。

 

(参考:ハロルド・ピンター全集I/新潮社/2005年)

 

家なし職なし老人となったデイヴィス。精神的支障を抱えるアストン。兄を支える弟ミック。社会の中に陰鬱と存在する歪みが浮き彫りになっていく。

 

物語のどこを見渡しても幸福らしい幸福が見つからない。じめっとした息苦しさ、薄暗さが、全てを覆い尽くしている。
不条理の演劇。

 

原作を読んでも、最後の瞬間まで悲壮感に支配されているとしか感じられない。

 

だが、しかし、どうだろう。
イッセー尾形演じるデイヴィスの、入野自由演じるアストンに語りかける、ラストの「ねぇ」。この老人は希望を捨ててはいないのだ。


そして、アストンの放つその沈黙の中には、確かに、希望の種は残された。否定の台詞が続くような沈黙の空気とは、確実に違っていた。

 

その沈黙に、この物語の強烈な印象が残る。

 

物語は全て暗く、そのどこにも希望らしい言葉は出てこない。だが、確実にこの物語は「希望」について語っているのである。それは、隅々まで全てが真っ暗な闇の中で、強くもない、意識的に目を懲らさないとその存在には絶対に気付くことのできない、薄っすらと、ぼんやりとした弱い弱い光の存在。その希望を見たのだ。

 

世の中に現実として存在する「希望」と言うものは、得てしてこういうものなのではないだろうか。強烈で明確な希望というものはほとんど存在しえない。ただ、見る目を持つ者が、感じ取ることのできる者が、その目を適切に使うことによってのみ、希望はその姿を静かに現す。

 

Quaerendo invenietis.
「求めよ、さらば見出さん」

 

まさに、そんな言葉の世界が、現実世界の代弁として生み出された、そんな演劇であった。