表現力
北海道の女性アイドルグループ、タイトル未定のメンバーで冨樫優花さんという方がいる。otsumami feat.mikanというマルチクリエイター集団でメインボーカルを担当し、過去にTOKYO IDOL FESTIVAL内のカラオケ大会で優勝経験があるなど、元々界隈では有名な方のようだが、ちょっとびっくりするほどに歌が上手いので、最近すっかりハマっていて、それでたまに北海道に行ったりしている。AirDoって凄いね。
うたのつくりかた(otsumami feat.mikan)
ライブ後の特典会で冨樫さんとお話するとだいたい音楽の話になるのだが、先日ぽろっと冨樫さんから「もっと表現力を高めたい」という言葉が出てきた。
前出の「うたのつくりかた」。3回出てくるサビ終わり、1回目の「残してく」2回目の「名前つけて」3回目の「この歌を」、それぞれ最後の音のディミヌエンド(音の消え方)の作り込み方が3回でまるで違う。特に最初の「く」の吐息のようなノイズさえも音楽に変える見事に美しい消え方は鳥肌さえ感じる。それぞれの音の仕舞い方はその前の歌詞「なにげない日々のさりげない意味が消えてしまわないように失くしてしまわないように」、「とめどない日々に止まらない明日に置いていかれないように越えていけるように」という言葉の世界、二つの世界において心が受動的に動いているか能動的に動いているかという違いを踏まえての、とても立体感のある音作りを感じる。一つ目の音の仕舞いの穏やかさが2つ目の音作りの高揚感を加速させる。そして普遍性を求めるラスト。ここにおいて、その高い表現力がダダ漏れしている。
普通の人に比べれば桁はずれて高い表現力で、これから何をどうするといいのかなど素人には想像もできないレベルの高い世界で、少し気後れに似た感情を持った。ただ冨樫さんとのお話の中で出てきた「表現力」という言葉がずーっと頭の中に残り続けている。
ポップスシンガーにとっての表現力の何たるかは武部聡志さんの著書に的確細かく書かれており、それを参照したい。
曰く、自分の声の特徴とそれに合った音楽をする、続けることが大切。冨樫さんの話でいえば、その歌声は全体的に透明感があるが時にエモーショナルである。が、それより個人的に印象に強いのは「楽しい歌を楽しそうに歌う」力だ。キャピキャピすることとは違う。「歌が上手い」とされる歌手の中には強い喜びや強い悲しみを生み出そうとすると、「上手く歌う」ほう、テクニカルな歌に振れて感情を殺そうとする傾向がある人がいる。冨樫さんはそうではない。タイトル未定の楽曲でも「プラネタリウム」の2Aパートの弾むような歌い方が顕著だが、ラストの「La La Di Li...」の部分の切なさを纏った大人な雰囲気のある「楽しそう」な歌は何度聞いても凄いなと思うし、ライブで聞いているとそのバランスが多少ゆらぐところもまた印象に残る。他にもそんな雰囲気が冨樫さんの歌には感じることがあって、これはある種の才能だと思っている。歌は言葉だと常々思っているが、言葉が持つ世界を歌に乗せることができるのは表現力の世界なのではないだろうか。
それにしても、吉田拓郎さんの「あえて酒を飲み喉を潰すと歌がかっこよくなる」という話は凄い。表現力の奥深さを垣間見るようだ。
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表現力って何だ?
歌について、さてさらに深く語るほど専門家ではないわけで、素人は素人ならではのクロスジャンル的な発想を持ち込むことにしたい。
表現力とは単純に考えれば、ある人が考えた事を他者に、過不足なく「余計な脚色はされず、内容に欠けることのないように」伝え理解してもらうための能力であり手段である。歌であれば、その歌詞や音楽の持つ世界を聞く人に「正しく」伝える力である。ただ、その枠組みの中のみで物事を終始させてしまうと、芸術という巨大な得体の知れないモノに抗うには少し力が足りないので、話を広げてみたい。
このブログに過去登場したシュトックハウゼンの「クラング」。一般人なら冒頭の1分も耐えて聞いていられないだろう。
Klang 13. Stunde: Cosmic Pulses (Karlheinz Stockhausen)
これを聞いて「表現力の高い音楽ですねー」なんて言い出す人がいたらちょっとギョッとしてしまうかもしれない。
美術品として日本刀を見て「この刀は表現力がありますね」なんて言うこともなかなか聞かない。太刀「久国」についても、その京都山城国粟田口派の名品らしい気品ある風情、表情よりも、「徳川家康の愛刀」という由縁のほうがピックアップされていたりさえする。もっとも、日本刀の反りや鎬(しのぎ)の様子、佇まいは地方や時代によっての差異がある上に、刃文に浮かぶ表情は熱した刀身の冷却した際の温度差に起因しており、それは焼刃土の置き方等に左右されるわけだから、ある程度刀鍛冶の表現力が語られて良いのではないかとは思ってはいる。すなわち、直刃(すぐは)は多くが気品を持ち、湾刃(のたれは)は多くが豪快さを醸す。当然日本刀は武器として「切れて折れにくい」という命題が大前提としてあるものの、その先に日本刀として表現される世界がある。
太刀、銘「久国」(国宝)
新宿歌舞伎町の街を歩き見て、ドンキホーテの看板を見て、あぁこの看板は表現力がありますね、なんて思うことはない。ただそれをスナップショットにして写真という作品に仕上げようとすると、写真という作品の中の存在として表現力が問われたりする。
写真を撮るという行為側からすれば、ドンキホーテの看板でさえ、それは美しいと思った素材のカケラになり得る、不思議なものだ。むしろ写真家という人の「美とは思われないもの」から「美」を抽出する能力の高さに圧倒されさえする。直感に基づくが計算されつくされているとしか思えない構図の中に美が新たにその産声を上げているのである。
「In Tokyo 2025」(リコーギャラリー、森山大道による作品群)
鑑賞という行為の中には作品の中に作り込まれたコンテキストを感じる行為と、作品の外のコンテキストを感じる行為の両方が含まれる。
ドンキホーテの看板は、一般にはそのものを表現作品とし鑑賞の対象として扱うことはないが、それが写真作品になり、さらに美術館に飾られることで美の一部に昇華される。それはドンキホーテの看板という作品の外側に作り込まれたコンテキストを作品として鑑賞する行為とも言える。
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ミュージカル「コーラス・ライン」は、そんな作品の中と外のコンテキストの関係と現実を、ある意味でえぐく切り取った作品とも言える。役者一人ひとりにそれぞれ個別の事情、ストーリー、悩みや期待を抱えていてそれが個性として表現されるが、最後に舞台に上がると全員がまるで同じ衣装となり個別の個人的ストーリーは完全に消え去り、表情も均質になり個性も消え作品の「一部」に溶け込む。
観劇者は演じる役者個人それぞれがその背に負う事情・苦悩を知った上で、それをそれぞれが克服し、超越し舞台を作り上げる姿にこそ感動する。「役者という生き方」の素晴らしさを感じる。しかしそれは裏を返せば、一般演劇においてはそのような役者が個人的に背負っているストーリーを観劇者が知る機会は存在しない、という事実提示でもある。だからこそ、演劇の舞台は”それ単体として”深いカタルシスを生み出し、まぶしいほどの光を放つ強い魅力を湛えなければならない。
ストーリーを知らず最後の「One」だけ見ると、なんでこんな金ピカの派手な衣装なんだ、みたいな感想を得るかもしれないが、そこにはしっかりとした意味があるし、そうでなければならないのである。
A Chorus Line - Olivier Awards performance
また、逆も然り、である。
立川談志の芝浜は、数多くある落語作品の中でも歴史的名作の部類に入れて良いのではないかと思う。終始続く高い緊張感と、後半からオチに至るまで切々と語られる夫婦の人情の深さ、妻の髪をつかみかかる夫の緊張、許しと酒を改めて勧める表現のふくよかさ。
破天荒で毒づくことも多い立川談志という人の「素」の人間性やその私生活における喧噪から離れて、この作品の中に流れる美しさ、見事さは語られるべきものである。
芝浜(立川談志)
演劇とは、役者が「覚えてきた台詞をしゃべっている」という感じを0.1ミリでも外に出してはいけない。あくまでも役柄の人物が自然に発話するように、そこにそういった人が生きているように見せなくてはならない。それは人間の思考や発話、起きた出来事に対する生理的反応といった現象学的に言って正確なタイムラインが必要にもなるが、他方で何をしゃべっているかを観劇者に理解されるような正確な発音も必要となる。これはこれが落語や漫才になったとしても同じであろう。
歌にもこれに似たような部分はあるかとは思っている。覚えてきた歌詞を歌っている歌に魅力はない。その歌詞の世界をどこまで深く掘り下げられるか、それを自分の表現世界にどこまで深く落とし込められるかが、表現力の深さに直結していると感じる。
その世界の中に深く入り込んでいくと、表現は演者の心理状態や精神状態に左右されるという事象まで発生する。同じ言葉を語るにしても、キャラクターとして話すことに終始する場合と、演者個人のプライベートの中にまでその世界が浸食してしまっている場合には重みは異なってくる。
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リヒャルト・シュトラウス「ツァラトゥストラはかく語りき」(ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、グスターボ・デュダメル指揮)
「ツァラトゥストラはかく語りき」は以下の文言から始まる19世紀哲学者ニーチェの名著である。
「ツァラトゥストラは、三十歳になったとき、そのふるさとを去り、ふるさとの湖を捨てて、山奥にはいった。そこでみずからの知恵を愛し、孤独を楽しんで、十年ののちも倦(う)むことを知らなかった。しかしついにかれの心の変わるときが来た。」
(ニーチェ「ツァラトゥストラはこう語った」/氷上英廣訳/岩波文庫)
何てことはない、30歳で山に籠もった青年が40歳になって山から下りてきたという話だ。それをこの音楽から感じ取り、聞き取っている人はおそらくほぼいないのではないかと思う。いや、ひょっとしたら演奏している側でも理解している人は少ないかもしれない。前出のベルリンフィルの演奏で指揮をしているグスターボ・デュダメルはこの本を愛読していると語っていたから、その深さをよく知っていると思う。ツァラトゥストラは「山から下りてきた」とはいえ、そこには「大いなる正午の訪れ」「永遠回帰」「神は死なねばならない」などの世界の真理ともいうべき物を会得した青年ならではの、大いなる下山であり、そして没落なのである。その上で、没落するにあたり大いなる一歩を地に足着ける、その感覚がこの前奏の後半部分には必要な表現となる。
この音楽は映画「2001年宇宙の旅」に使われているため、宇宙や惑星を印象から取り出す人のほうが圧倒的多数だと推測する。それこそ、この音楽の真実とは全く関係のない所で作られた「外側のコンテキスト」が音楽の印象さえ支配してしまった一例とも言える。
ClariSの「コネクト」の単体音楽作品としての音楽的な素晴らしさをいくら語ったとしても、一般では「あぁ、まどマギだ」という認識のほうが先に来てしまう。「魔法少女まどか☆マギカ」という作品の魅力に音楽的な良さがずっと引っ張られてしまう。もっともそちらも名作ではあるし、この曲の音楽的な側面でのファンも一定いるのは事実だし、「まどマギ」と認識されるのはそれはある意味では価値の相乗効果であるわけだから(ただしどちらかというと経済的価値である)、決して悪いとも言えない。アニソンやサントラというのは得てしてそういう運命にある作品なのかもしれない。
「コネクト」の、荒廃と勇気、不安と希望の、それらが駆り立てられるが圧力ではない優しい力で押される空気の展開する世界観は素晴らしい。
コネクト(ClariS)
特に、いわゆる「オタク」という人たちはどちらかというと作品の外のコンテキストを重視しがちな傾向がある。映画やアニメ、演劇などであれば誰が監督したのか、誰の原作なのか、誰の演出なのか、誰が役を務めるのか、その監督なり原作なりは他にどんな仕事をやってきたのか。そういったオタク層を相手に作品を表現するのであれば、作品自体の出来を上げる事と同じくらいに作品の外側を作り込むことにリソースを割くことが必要になってしまう。ただ作品の内に流れる美しさを放っておいて、そういった作品の外側のコンテキストを重視する風潮を「作品を愛している」という感覚と混同するのは、私はどうなのかと思う。
「Tiktokで流行った」などのコンテキストも、実際問題としては該当音楽の内容やその真実とは距離があり、結局は作り込まれた「外側のコンテキスト」にしかならない。言い換えれば、「外側のコンテキスト」の出来は、作品そのものの高度な表現力による素晴らしい仕上がり具合を簡単に凌駕してしまう。
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一方でそんな「作品の外側のコンテキストに価値を置く」ことは日本文化ならではの風潮でもある可能性も否定しない。
茶は薬用から始まり、「茶を飲む」という行為はそもそも薬事行為だった。これがために、元々外側のコンテキストがその行為の起点として位置しており、両者を切り離すことはできなかった。
茶の文化が日本に伝わり、日本では古代から中世へ、公家政治から武家政治へ、仏教は小乗仏教から大乗仏教へ、そしてその大乗仏教の最終形態としての「禅」が生まれていった。その中で村田珠光は「冷え・凍(し)み・寂(さ)び・枯(から)び」の美的感覚を基礎とした「侘び茶」の文化を創始し、茶は禅と統合され「茶禅一味」の考え方が起こった。
すなわち、物事の「完成」よりもそこへ至る「過程」を尊んだ。過程を尊ぶということは、未完成であることを重視することになる。未完成を重視すればこそ、そこに完成へ至る無限の可能性が引き起こされ、また「完成した姿」という物質主義から「未完成の可能性」という精神主義へと、文化の支点は大きく変容するのである。未完成であればこそ、そこに心の入り込む余地が生まれ、自らの進歩を内省できるようになる。
未完成を尊ぶということは、均衡、均質、均等から離れるということでもある。明治時代の文人である岡倉天心は「茶の本(Book of Tea)」の中で次のように述べている。
「香炉や花瓶を床の間にすえるにもその場所を二等分してはならないから、ちょうどその真ん中に置かぬよう注意せねばならぬ。」(岡倉天心「茶の本」/岩波文庫)
茶室に入り、床の間に飾られた花を見るという行為それだけにおいても、そこには禅の思想が反映されていなければならないのである。
時を同じくして瀬戸焼や備前焼などの窯における技術革新も重なり、朝鮮青磁・白磁、あるいは唐物である天目などの貴重品による豪華な茶の湯から、日常使いの脆く不均衡である日本製茶碗を用いた侘び茶の世界へと遷移していったのである。珠光の後、千利休が茶の文化をさらに洗練させまとめあげたが、そこにはまた楽長次郎などの作陶の天才の出現も大きく作用した。すなわち、備前焼や楽焼というものはこの偉大なる進化の中で日本独自の美の姿として抽出されていったものである。
黒楽茶碗
斯様に、日本文化の根底には、単体としての作品の内に流れる美を受容するために、外側の大きなコンテキストの理解を求めてきたのである。
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ところが、である。これを重く見るがために美術としての領域を狭めてしまっている分野がある。「書」である。
五島美術館の元副館長である名児耶明さんは著書に書の美術を好む人自体の減少を懸念し、またこんな事を書いている。
「墨跡(ぼくせき、禅僧の残した書の美術)の鑑賞については、禅僧の修行の成果として墨跡の精神性の深さを知らなければ理解できないと思い込んでいる人が多いと思う。じつは、それらを気にしなくても、墨跡の魅力に触れることは可能である。何度も述べるように、自分の好きなように素直に形や迫力、造形美を楽しめばいいのである。墨跡を難しいもの、近寄りがたいものと尻込みする必要はない。読めなくてもよいし、恥ずかしいことはない。まずは、文字造形を楽しむことからはじめることが肝要である。作品に興味をもてたら次に文字が読めるか挑戦すればよい。そしてさらに内容の理解に進めばよいのである。」
(「日本の美と心を読むー書の見方」名児耶明・著/角川選書)
「沢庵一行書『緑水青山』」(沢庵宗彭、墨跡)
文字そのものの造形美、それぞれの文字に浮かぶ点とそれらを繋ぐ線、その流れと速さ、それらが面に及ぼす効果。文字の連続した意味以上にこの作品は麗しく、清雅である。まるで紙面からマイナスイオンでも出ているのではないかとさえ思うほどだ。
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あらゆる芸術作品、文化的作品にとって、作品外のコンテキストを無視してその魅力を語ることはかなり難しい。お寺の本殿の中で見る仏像は、美術館で見る仏像より壮麗に見える。
しかし、芸術を愛好する者として、作品の外のコンテキストによる鑑賞の影響を排除し、なるべく作品の内側の美を見出す事に注力したいとは思う。美術館で見ていても仏像は美しいし、ドンキホーテの看板はそれ単体として鑑賞の対象としてなり得るのである。赤の背景に浮かぶ黄色の文字はそれ自体になればこそ目を引き、鑑賞者にすぐにその印象と具体を提示する。であればこそ、この看板は表現力が高い作品なのである。そうして世界を受容すればこそ感じる、世界はそのままにして美しいのである。
絵画であれば「誰が描いたか」ではなく「何がどのように描かれているか」こそが重要なのである。中国の古い批評の言葉に「世人は耳によって絵画を批評する」という言葉がある。だがしかし、そうであってはいけない。
日本刀であれば、その由縁が何であるかに関わらず刀身に浮かぶ表現力の凄みを見出す行為であり、ジャクソン・ポロックが何をやろうとしたかを全て意識から排除した上でポロックの絵画の美しさを感じる行為である。無作為の中に生まれるひそかな人間性の印象が、この絵画を生き生きとさせている。
ジャクソン・ポロック「Autumn Rhythm」
前述の岡倉天心の「茶の本」の中で、小堀遠州が千利休について語った事を記している。曰く、千利休とは、凡俗の評価に流されることなく、自分がおもしろいと思うものを信じる勇気があった。なればこそ利休は千人に一人の宗匠であった。
「美を友として世を送った人のみが麗しい往生をすることができる。」
(岡倉天心「茶の本」/岩波文庫)
千利休の最期は有名ではあるが、その美を仕舞いのひとときまで棄てることのなかったことこそが、その往生を麗しく留めている。
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19世紀イギリスの批評家ペイターはその著書の中でこのように述べている。
「おのおのの芸術は、独特の(他の表現手段への)翻訳不可能な感覚的魅力をもち、想像にはたらきかけるのにもそれぞれ特殊な方式をもち、題材に対してもそれぞれ特殊な責務をもっていることになる。(中略)音楽においては、音楽的魅力、すなわち音楽をわれわれに伝える特定の形式とは無縁な言葉を少しも前面に押し出すことのない、音楽の本質に注目することである。」
「あらゆる芸術は音楽の状態を憧れる。(中略)芸術は、単なる理知から独立して、純粋な知覚の対象となること、主題あるいは内容に対する責務を振り棄てることを目指して、不断に努力している。(中略)この芸術の理想、この内容と形式の完全な一致が申し分なく実現されているのは、音楽芸術である。至上の瞬間において音楽では目的と手段、形式と内容、主題と表現の区別がつかない。それらは互いにかかわりあい、完全に飽和しあっている。」(ペイター「ルネサンス」/中公クラシックス)
Bill Evans "Danny Boy"
ビル・エヴァンスの音楽は、ビル・エヴァンスがどういう人物なのか、どういう形式で何を表現したかったのか、そんな事を言葉に並べるとそこからこの音楽への理解が歪んでしまうほどに、その音楽の中には強い強い美が湛えている。外側のコンテキストは何も要らない。そこに音楽を理解する知性さえ要らない。ただ心に浮かぶ感性に身を委ねるだけでよい。
Eric Dolphy - At The Five Spot, Vol. 2
エリック・ドルフィーの音楽であっても、その話は実際のところ変わらないのである。
ドルフィーは36歳で早世した稀代の名ジャズ・サックス・プレイヤーであり、パーカー、コルトレーンの歴史を継ぎフリージャズの扉を開ける。その音楽は、時に不協のように聞こえることもあれば、時に野獣の咆哮のようなラジカルな感覚的美を生み出すがため、万人にとって理解に容易であるとは言えないかもしれない。しかしその音楽の推進力の強さは他を圧倒するほどの力を持っており、これもまた表現力の高い音楽なのである。
20世紀の作曲家ストラヴィンスキーは「音楽は音楽以外の何者も表現しない」と語った。すなわち、「音楽の美しさ」とは音の流れ、重なりあったその中にこそ存在するものであって、それ以外のどのようなコンテキスト上にも音楽の魅力は存在し得ない。
ストラヴィンスキーは長い生涯の間にいろいろな発言をしておりますが、中で最も重要なのは「音楽以外の何ものも表現しない」ということばでしょう。
実のところ、この「音楽は音楽以外の何者も表現しない」という言葉は、前出のペイターの「あらゆる芸術は音楽の状態に憧れる」という言葉と、本質的な意味において全く同じ事を言っているのである。
私はこのブログを書くにあたってこの点の発見を最も伝えたかったのかもしれない。
冒頭に提示した、シュトックハウゼンの「クラング」。
「24個の異なる音高、テンポのパルスが、24の音域で回転し、24の惑星の運動から宇宙の脈動を作り上げている。」
そんな説明は、最早どうでもいい。
ホール内に置かれた8個のスピーカーから流されたこの音楽を聴いていると、いつの間にか自分の絶対性は消え去り、自分が絶対的原点からどこか遠く離れた相対座標の上でふわふわと浮かんでいるような感覚に陥る。自分のミクロ性を感じ、その時「クラング」の表現力の高さを知る。この音楽は美しい音楽なのである。
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最後に、アイドルグループ私立恵比寿中学の安本彩花さんが自身の生誕ソロコンサートで歌った「ジャンプ」を紹介したい。この音楽について、ここで細かに説明することは控えたい。
ジャンプ(安本彩花)
生きる事の全てを歌に乗せる。
私は、表現力としての最も高い所を見たのだ。
ヴァイオリン協奏曲第3楽章の魅力
ヴァイオリン協奏曲の第3楽章は、舞踏曲。いわゆる、ダンスミュージック。
民族音楽的な色合いも強くなる。
第3楽章の魅力を知ると、もっとヴァイオリン協奏曲というジャンルを好きになる。
(※以下の動画では第3楽章のいい感じのところから再生するように設定してます。)
- ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲(32:01~第3楽章)
- ブラームスのヴァイオリン協奏曲(34:02~第3楽章)
- メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲(20:13~第3楽章)
- チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲(26:07~第3楽章)
- シベリウスのヴァイオリン協奏曲(28:45~第3楽章)
- ドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲(22:06~第3楽章)
- ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番(17:32~第3楽章)
- グラズノフのヴァイオリン協奏曲(13:40~第3楽章)
- サン=サーンスのヴァイオリン協奏曲第3番(19:01~第3楽章)
- ヴィエニアフスキーのヴァイオリン協奏曲第1番(21:24~第3楽章)
組曲「惑星」解説の試行
「ドイツ音楽の亜流」「大作曲家が存在しない国」と世界的に評価の低いイギリス音楽の分野で、“サー(准男爵)”の称号を得て“国王の音楽師範”の称号まで与えられたエドワード・エルガーや、現存のイギリス勲章の中で最も名誉のある“メリット勲章”を授与され“イギリス作曲界のグラン・オールド・マン(老大人)”とまで言われたヴォーン・ウィリアムズに比べると、確実に目劣りする片田舎の音楽教師グスターヴ・ホルストだが、そのホルストの人生を狂わせてしまったのが、彼が作った組曲「惑星」である事は間違いない。
この曲は4管編成をベースとしてチェレスタ、7台のティンパニ、2台のハープ、さらに女声合唱やパイプオルガンまで登場する巨大編成オーケストラを要する、7曲(火星、金星、水星、木星、土星、天王星、海王星)から成る組曲であり、比較的演奏するのに金のかかる部類の音楽に属する。豪快で華々しい「火星」や「木星」の頂点的な人気の影で、全く人気がないが穏やかで透明感のある「金星」や「海王星」などの存在と、その明暗・静と動のコントラスト、構成やバランスの良さが、「近代管弦楽を代表する」と評される所以とも言える。
作曲者はこの曲が作曲者の名前以上に人気が出すぎて、他のどんな曲を作ってもこれ以上の人気を得ることはできなかった。その事に対して作曲者自身は不満だったようだが、実際の所、「一発屋」というレッテルはついてまわり、死後30年あまりまでの間では結局、曲も作曲者も評価は低いままであった。その後1950年代後半になってフレデリック・フェネルが埋もれていた「吹奏楽のための第一・二組曲」を発掘・録音したり、1960年代初頭にカラヤンがウィーン・フィルで組曲「惑星」を紹介した事で、ようやくホルスト自身にも一定の光が当たるようになり、組曲「惑星」も「名曲」として迎え入れられるようになった。ただ、その一方で、この曲はイギリス音楽であるにも関わらず「イギリス音楽」と認識されることもほとんどなく、又、「いかにもイギリスらしい」演奏を聞く機会もほとんど無いという、若干残念な曲でもある。
また、よせばいいものを、組曲「惑星」を作曲した当時発見されていなかった惑星に対して、ホルスト協会理事のコリン・マシューズが「圧倒的なる蛇足」として「冥王星」を作曲し組曲「惑星」にくっつけた。しかし、冥王星が太陽系惑星の座を奪われるというニュースが出てくると、その名前だけで売れてしまうというばかげた話は、記憶に新しい。因みに「冥王星」は組曲「惑星」の7曲とは手法も方向性も全く異なり、連続して聞くと違和感たっぷりであり、しかもオリジナルの楽譜を改変している上に、前述のようなもともとの組曲の持つ「バランスの良さ」を全くもって崩しまくっている迷曲中の迷曲である。
アルフレート・シュニトケ「グラス・ハーモニカ」
1968年にアンドレイ・フルジャノフスキーのアニメーション映画作品のために作られた音楽。金貨を持つ悪魔に支配された街に、美しく光りそして美しく鳴り、人々に「正しい行い」を思い出させる聖なる楽器「グラス・ハーモニカ」を持った青年がやってくる。。。
権力とそれへの抵抗を如実に表した本作は、「ブルジョワ社会が生み出す野獣への指摘」(=資本主義社会の批判)と冒頭にコメントを追加したにもかかわらず、当時のソヴィエト連邦の検閲を通らず、ペレストロイカ(ソ連の立て直し)が始まるまで実に20年に渡って公開を禁じられた。
私は2011年のサントリー芸術財団サマーフェスティバルで、生演奏付き上映(世界初公開)というものを見てこの作品に出会った。

指揮:秋山和慶
エレクトロニクス:有馬純寿
東京交響楽団
美しかった。
主題となる「シbーラードーシ♮」は「BACH(バッハ)」の名前のそれぞれの文字を模した音型だが、バッハという名前もこれほどに神々しくなるものかとさえ思った。
それは頭の中に強烈にこびりつくような美しさだった。
あの音楽に出会わなければ、アルフレート・シュニトケという人の音楽を「協和音と不協和音の混在するけったいな音楽」くらいにしか思わなかったかもしれない、とさえ思う。
2025年1月26日に指揮者の秋山和慶氏が亡くなった。
様々なオーケストラ、東京佼成ウインドオーケストラや大阪市音楽団などの吹奏楽でも多数の作品を指揮をし、後進の育成にも多くの実績を残されたので、「いかに素晴らしい先生だったか、いかに的確な指導だったか」「いかにクラシック音楽や吹奏楽の発展に貢献されたか」「いかにすばらしいお人柄だったか」といった悼む声を多数見た。
もしかしたら私も、シュニトケの音楽の素晴らしさを教わりその時代の音楽への興味を持つきっかけを与えてもらった「生徒」だったのかもしれない。
しかし、私の秋山和慶氏への強い印象がそこではなかったので、少し違和感があった。それを残しておきたい。
秋山さんの指揮する音楽には「美の真実」があった。
昨年新日本フィル定期で登場した際のラフマニノフの交響曲2番もそれはそれは美しいものであった。
我々はこの世界から一つの美を失ったのではないだろうか。
そこが、実に悲しい。
ご冥福をお祈りいたします。
指揮:秋山和慶
洗足音楽大学
鎌倉期の名刀
静嘉堂の刀剣特集に行くのは世田谷区岡本時代から3回目か4回目くらいかな。

結論から言って、「日本刀って難しいね」と。
私の理解している鎌倉前後の日本刀史の概況はこうだ。
平安時代までは直刀が主流であり、平安中期、前九年の役/後三年の役あたり以降から武士の広がりに伴い反りのある彎刀(わんとう)、鎬造り(しのぎづくり)の日本刀の形が定まってゆく。当時の刀鍛冶といえば、京都(山城)、岡山(備前)、そして鳥取(伯耆:ほうき)。
平安末期には平家政権が生まれ、それを源頼朝、源義経らが壇ノ浦で追い込み滅亡させ、いよいよ鎌倉幕府が生まれる。この際に奈良(大和伝)、京都(山城伝)、岡山(備前伝)らの刀鍛冶が神奈川へ移住し、相州伝を作る。(これに鎌倉末期に発生する岐阜の美濃伝を加えたものがいわゆる五箇伝。)
武家社会になったことでいよいよ刀鍛冶の技術が高くなるが、13世紀末に元寇が起きたことで事態は一変する。
それまで単騎戦が主流であった戦法が集団戦へと強制的に遷移させられる。これによって、鎌倉前期は華やか豪快で、見た目に強そうな刀が主流となるが、元寇以降はより刀身は短くなり、軽快俊敏に動き回れるよう武器と防具に変わってゆく。さらに短刀が広く作られ始める。
得能一男の「刀剣鑑賞の基礎知識」には鎌倉中期の刀についてこう述べられている。
日本刀の刃文としてはこのあたりが技術的にも頂点にあるといってもよい刃文であり、総合的な見地から鎌倉中期の刀剣は、日本刀の歴史のなかで頂点にあるといってよいであろう。
(「刀剣鑑賞の基礎知識」、得能一男・著、刀剣春秋社)
国宝の日本刀には鎌倉期のものが非常に多い。
元寇に対応した武士への恩賞不足から鎌倉幕府体制が弱体化し、鎌倉幕府は倒れ、世は南北朝の戦乱期に入る。すると太刀は巨大化、威圧的な存在へとまた変化する。その後、武士が増えさらに騎馬戦主体から歩兵戦主体へと変化することで、佩刀(はいとう、刀を携帯すること)の姿も変わり刀も太刀から打刀(うちがたな)へと置き換わってゆく。
刀には表と裏があり、表に銘が彫られている。表を外に向けて佩刀した際に刃が下に来るのが太刀であり、上に来るのが打刀。騎馬上から攻撃する時と歩兵として攻撃する時とどちらが俊敏効率的に動作ができるかという所で、太刀と打刀の違いが生まれたという説もある。すなわち、騎馬に向く太刀、徒軍(かちいくさ)に向く打刀。
刀は鉄からできている。
ただ、本来鉄は柔らかいので鉄に炭素を含ませた、硬い、いわゆる炭素鋼との組み合わせで作られる。つまり、芯は純鉄に近く柔らくしなやかで、外側、特に刃の側は炭素成分を増やして硬くする。これにより折れにくく、そして切れやすい刀が生まれる。
炭素鋼は古くから砂鉄から作る玉鉄(たまはがね)を叩いて不純物を取り除き、木炭を材料として浸炭、脱炭により炭素含有量をコントロールして作られる。冶金というのは面白い。
浸炭
脱炭
特に外側の炭素鋼部分は焼き入れ時に土(焼刃土)を置いて焼き入れにかける時間をコントロールするが、刃に近いところの土を薄くすることで水に入れた際に急速に冷えてより硬度が上がる。と同時に刀の反りにも影響を与える。
この焼刃土を薄く塗った部分には、急速な冷却によって炭素鋼の結晶であるマルテンサイトを作り出す。刃と刃以外の棟部分との間に境目ができるのはこのためであり、これが刃文になる。
刃文には真っ直ぐに伸びる「直刃」や、ゆったりとカーブを描く「のたれ刃」、デコボコと植物のように見える「丁子」、ほかにも「互の目(ぐのめ)」「小乱」など、焼刃土の置き方にも影響され様々な景色が生まれる。
刃文にあるマルテンサイト結晶がツブツブのようになりその粒が目に見えるほどのものを「沸(にえ)」といい、粒が肉眼で見れないモヤのようになるとこれを「匂い」という。沸が、川の砂が水に流れるように綺麗に描かれているものを「砂流し」といったりする。とかく、日本刀の世界は専門用語が多い。
なので、刀身の長さ、刃の身幅、反りの具合(刀身のどこでどのくらいの深さで反るか)、鋒(=切先、刃の先端)が細く長いか太く短い(猪首切先)か、そして刃文の景色の穏やかさあるいは華やかさの違い等々によって、前述の鎌倉期の日本刀の変化を捉えようとしてみる。
確かに、備前の太刀「長船長光(おさふねながみつ)」のその華やかさ豪快感はまさに13世紀鎌倉期の刀剣らしさを感じる。

腰反りが強くそして小切先。地の鍛えは鮮明な杢目だが、刃文は匂いを主体とした重花丁子乱れとなり華やか。優雅さもあるがどちらかというと威圧感を強く感じる。
他方、新藤五国光(しんとうごくにみつ)による太刀「國光」の穏やかさ優美さ繊細さは14世紀鎌倉期的なものなのかもしれない。

前述の備前に比べ細身でありながら、刀身は中心からシンメトリー気味に反る鳥居反りで切先は細い。刃文は鍛えの地沸や刃縁の小沸など沸が豊かに広がる細直刃。全体的なバランスに安定感があり優雅。
しかし、ここまで書いていてなんだが、前者の特徴はどちらかというと備前伝の特徴が強く、後者は作者は相州だが山城伝にも類似の傾向を見て取ることができる。古備前行光にしろ、古備前友成にしろ、備前ものというのは全般的に豪快で華やかである。山城伝はさすがに京の都の刀だけに典雅さをたたえる。
さらにそこに、「相州行光(そうしゅうゆきみつ)(号・渋江行光)」のように、14世紀鎌倉期でありながら刃の身幅が広く反りは高い、刃の中ほどまでは五の目丁子、その先が浅いのたれが入り沸は豊かで砂流しがかかる、豪快で派手ささえ感じるがしかし打刀という、今まで整理していた情報から例外になりそうなものが存在していたりする。

古青江守利(こあおえもりとし)は13世紀鎌倉期の太刀でありながら、裏に銘が彫られているので一見して打刀との区別を見失う。

こういった独特さを持つひと振り、「例外」の存在こそが、それぞれの作刀文化の時代・地域を跨いだ交流や、ゆったりとした文化遷移からくるものだとしても、頭の中の整理にノイズとして現れ、なかなかにその世界の難解さを乗り越えるにあたってハードルとなっていたりする。
日本刀は実に奥が深い。
2ペンスを鳩に
2024年5月25日に、かの有名なシャーマン兄弟の弟リチャード・シャーマンが亡くなった。
「2ペンスを鳩に(Feed The Birds)」
映画「メリー・ポピンズ」の中で、ジュリー・アンドリュース扮するメリー・ポピンズが子供たちに歌って聞かせる子守歌だ。
ウォルト・ディズニーが最も愛した曲と言われており、週末になると作曲者のシャーマン兄弟を自らのオフィスに呼んだり、電話をかけたりしてこの曲を弾いてもらっていたという。ある時この曲を聴いたウォルトは「これこそが全てだ(That's what it's all about.)」とぽつんと呟いたと、シャーマン兄弟の兄ロバート・シャーマンは振り返る。
リチャード・シャーマンはウォルト・ディズニーの生誕100周年のイベントに呼ばれて演奏を頼まれた時に、いくつかの曲を披露した後最後に「君のために弾くよ」と言ってこの曲を演奏した。
「メリーポピンズ」は1964年に公開された映画である。
1960年代のレートで1ポンドはだいたい1000円。100ペンスが1ポンドなので、2ペンスはだいたい20円。1964年当時は大学卒業初任給が2万円くらいの時代なので、現代の価値に換算すると200~300円くらいになるだろうか。
メリー・ポピンズがベビーシッターとして来たバンクス家の父、ジョージ・バンクスは信託銀行(Fidelity Fiduciary Bank)に勤めている厳格な家長である。その信託銀行のトップ、ミスター・ドース・シニアは「2ペンスでも投資を行えばそれは複利を生み、それがアフリカの鉄道やナイルの貯水施設になる」と子供たちに説く。
他方メリー・ポピンズは「その2ペンスを使って、小さくて弱い者たちに対するあなたの"ケア(care)"を見せてください。そうすれば、幸せを感じる事ができるでしょう」と説く。
Come feed the little birds, show them you care,
And you'll be glad if you do.
同じ2ペンスを使ったとしても、信託銀行に預けて投資を行うことと、聖ポール大聖堂の階段で鳥たちのためにパンくずを買うことでは、得られる物質的価値も、幸福も異質であり、またそれによって得られる人間的成長の指向も違う。
いろいろな影響を受ける時代の流れの中で「鳥の餌を買う」ことで得られるような幸福は得られにくくなってきている。しかし、このような思いやりの心こそが、世界に光をもたらすために人に求められるものなのかもしれない。
この音楽は「人間らしくあることとは何か」を語っている。
ロバート・シャーマンはこう振り返る。
And you could just see Walt thinking, 'That's what it's all about, everything we do at Disney.'
これこそが、ディズニーでやってることの全てなんだ、とウォルトが考えていることが分かった。
ウォルト・ディズニーのエンターテインメント哲学の根幹だと思う。
近年のディズニー作品の中には、そんなウォルト・ディズニーの哲学を感じるものがほとんどない。「メリー・ポピンズ・リターンズ」の中にも、もはやそれは皆無であるといってよいのではないかと感じた。
或いは演劇やライブコンサート、アニメ、ディズニー以外も含めて他の様々なエンターテインメントの中にあってもそういったものの片鱗でさえも感じることは難しい。
もしかしたらその哲学は過度に20世紀的であり、21世紀には通用しなくなってしまっているのかもしれない。
我々はそんな時代に生きている。
【参考】
Wikipedia "Feed the Birds"
Feed the Birds: Its Significance for Us and Walt Disney
The Touching Story of How Richard Sherman Revisits Walt Disney’s Favorite Song in ‘Once Upon a Studio’
Richard : “I think Walt had a very deep-rooted feeling about this song; he could understand what we were saying. It doesn’t take much to give love, to give kindness, to give thought to people. Giving a little something of yourself… it doesn’t take much to do that.”
醜さ
にしなの「ケダモノのフレンズ」という歌にこういう歌詞がある
醜さが愛しさを抱きしめているなら
クライクライ夜は照らさない魔法が欲しい
優しくなれるように(作詞・作曲:にしな)
このフレーズが随分と長い間、頭の中に流れ続けている。
「醜さ」とは何だろう。
「美しい」の対岸に「醜い」があるのだろうか。
実のところ、そうではないという確信のようなものがある。
「醜い」という感覚は、理性によって生み出される感覚である。他方、「美しい」という感覚は、感性によって生み出される感覚である。
「美しい」はある知覚、見たり聞いたりといった知覚的現象が発生すると、そこから対象が何であるかを理解する前に作り出される。「美しい」と感じるものへの理解と理由付けは後からくる。理由が全く存在しない場合でさえある。対して、「醜い」という感覚は、根本的に自らの美的水準、ものさしで計測することのできない「自己基準の外側の現象」に対する違和感を、脳が思考し理解した結果として生み出される。理解や理由の後に「醜い」が出現する。
であればこそ、「美しい」と感じられる感覚は尊い。
「醜い」が理性によって作られる感覚であれば、本来的には理性によって完全に制御可能であるべきものである。理性がその感覚を十分にコントロールできずに「醜い」と強く感じることがあるならば、それはまだ理性を十分に制することのできない美的経験値の低さ、精神的な幼稚さが発露しているだけである、と言ってもいいかもしれない。他方、「美しい」という感覚にはそれは当てはめられない。
同じ対象物を見て、ある人はそれを「美しい」と感じ、また別の人はそれを「醜い」と感じるかもしれない。そのようなものである。
アルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」
新日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会でインゴ・メッツマッハー指揮、クリスティアン・テツラフ独奏による、この曲を聞いた。
とても美しかった。
もしかすると5音もしくは7音音楽による調製音楽の世界にいる人の側からすると、この音楽の自由な12音による無調整の転回(展開)は醜いと感じたりするのかもしれない。
「醜い」とまでは感じずとも、食卓に「柿の蔕(へた)茶碗」でも置いてあろうものならば、それが美しいと感じることは、一般的にはないのかもしれない。
他方で、これがフランシス・ベーコンのような作品になると、もはや「それを美しいと感じることは、正常な作用と言って良いものなのか?」という不安に駆られることさえある。
フランシス・ベーコン「ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の習作」(デモイン・アートセンター)
Study After Velázquez's Portrait of Pope Innocent X – All Works – eMuseum
そこに、「私の感覚が正しい」とは言い切れない、言いしれない不安感があることもまた事実である。
だが。
自己の中の美的水準を拡大することによって、森羅万象に対して「醜い」と感じる出来事対象物は減らすことができる。
なんだか、そんな人生、他者よりも「美しい」と感じるモノが多い世界に生きていることは、得な人生なのではないかなと、そんな風に感じたりもする。






