醜さ
にしなの「ケダモノのフレンズ」という歌にこういう歌詞がある
醜さが愛しさを抱きしめているなら
クライクライ夜は照らさない魔法が欲しい
優しくなれるように(作詞・作曲:にしな)
このフレーズが随分と長い間、頭の中に流れ続けている。
「醜さ」とは何だろう。
「美しい」の対岸に「醜い」があるのだろうか。
実のところ、そうではないという確信のようなものがある。
「醜い」という感覚は、理性によって生み出される感覚である。他方、「美しい」という感覚は、感性によって生み出される感覚である。
「美しい」はある知覚、見たり聞いたりといった知覚的現象が発生すると、そこから対象が何であるかを理解する前に作り出される。「美しい」と感じるものへの理解と理由付けは後からくる。理由が全く存在しない場合でさえある。対して、「醜い」という感覚は、根本的に自らの美的水準、ものさしで計測することのできない「自己基準の外側の現象」に対する違和感を、脳が思考し理解した結果として生み出される。理解や理由の後に「醜い」が出現する。
であればこそ、「美しい」と感じられる感覚は尊い。
「醜い」が理性によって作られる感覚であれば、本来的には理性によって完全に制御可能であるべきものである。理性がその感覚を十分にコントロールできずに「醜い」と強く感じることがあるならば、それはまだ理性を十分に制することのできない美的経験値の低さ、精神的な幼稚さが発露しているだけである、と言ってもいいかもしれない。他方、「美しい」という感覚にはそれは当てはめられない。
同じ対象物を見て、ある人はそれを「美しい」と感じ、また別の人はそれを「醜い」と感じるかもしれない。そのようなものである。
アルバン・ベルクのヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」
新日本フィルハーモニー交響楽団の定期演奏会でインゴ・メッツマッハー指揮、クリスティアン・テツラフ独奏による、この曲を聞いた。
とても美しかった。
もしかすると5音もしくは7音音楽による調製音楽の世界にいる人の側からすると、この音楽の自由な12音による無調整の転回(展開)は醜いと感じたりするのかもしれない。
「醜い」とまでは感じずとも、食卓に「柿の蔕(へた)茶碗」でも置いてあろうものならば、それが美しいと感じることは、一般的にはないのかもしれない。
他方で、これがフランシス・ベーコンのような作品になると、もはや「それを美しいと感じることは、正常な作用と言って良いものなのか?」という不安に駆られることさえある。
フランシス・ベーコン「ベラスケスによるインノケンティウス10世の肖像画後の習作」(デモイン・アートセンター)
Study After Velázquez's Portrait of Pope Innocent X – All Works – eMuseum
そこに、「私の感覚が正しい」とは言い切れない、言いしれない不安感があることもまた事実である。
だが。
自己の中の美的水準を拡大することによって、森羅万象に対して「醜い」と感じる出来事対象物は減らすことができる。
なんだか、そんな人生、他者よりも「美しい」と感じるモノが多い世界に生きていることは、得な人生なのではないかなと、そんな風に感じたりもする。