アンサンブル・アンテルコンタンポラン/二人静〜大地の歌

サントリーホール・サマーフェスティバル2021
アンサンブル・アンテルコンタンポランがひらく
東洋ー西洋のスパーク

 

細川俊夫 オペラ「二人静」~海から来た少女~
 平田オリザ作、能「二人静」に基づく
 ソプラノ:シェシュティン・アヴェモ
 能声楽:青木涼子

グスタフ・マーラー 「大地の歌」(声楽と室内オーケストラ用編曲)
 メゾソプラノ藤村実穂子
 テノールベンヤミン・ブルンス

 

アンサンブル・アンテルコンタンポラン
マティアス・ピンチャー指揮

 

二人静」のストーリーはこうだ。

難民の少女(恐らく中東またはアフリカのどこかの国の内戦などにより難民となった少女)ヘレンが弟と共に船に乗り祖国を脱出する。
たどり着いたのは地中海。陸地を見つけ船を出て陸地を目指すが、その途中で弟とはぐれる。弟は病気を患っており、上陸する前に力尽きる。繋いでいたはずの手が、解けてしまった。
「私はどこから来てどこへ向かうのか」
呆然と陸地にたどり着いたヘレンは、ある「女の霊」に取り憑かれる。

 

その霊とは、12世紀・平安時代末期の日本の武将、源義経の妾である静御前である。静御前白拍子、つまり歌舞を演じる能楽の演者であった。
静御前源義経の子を孕むが、その義経は謀反人と見なされ兄である源頼朝と対立することとなる。結局頼朝から「生まれた子が男なら殺す」と告げられ、静御前が産んだ男の子はすぐに殺され、鎌倉・由比ヶ浜の砂浜に埋められる。

 

静御前は子が殺される前に頼朝によって鶴岡八幡宮にて白拍子の舞を踊るよう命じられ、次の謡を詠む。

 

 吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき

 

静御前の霊は、ヘレンに「子供を弔って欲しい」と言う。

 

戦禍に弟を失ったヘレン、同じように戦禍に我が子を失った静御前、二人の悲劇は900年という時間と空間を超えシンクロし一つになっていく。

 

この物語は戦争詩である。内戦では恐らく「同じ民族同士の殺し合い」があったのだろう。それが、日本の武将が活躍した時代における「兄弟たちの殺し合い」と意味として重なってくる。そして、「同じ民族の仲間から、追われる身となる」「近しい身内を戦禍の中で失う」という境遇も重なり、その悲劇の色彩は似通ってくるのだ。

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他方、マーラー大地の歌」。
1907年、マーラーが47歳の時、悲劇が彼を襲う。7月にジフテリアによって長女マリアが4歳8ヶ月で他界。同じ頃、マーラー自身も心臓疾患を告げられ、そしてウィーンの宮廷歌劇場の音楽監督を辞任する。そんな1907年から1909年にかけて作曲されたのがこの「大地の歌」である。作曲者へ忍び寄る「死」の影に対して、生きる者としての「生への執着」が生々しく描かれる。
詩は中国の詩人、李白や孟浩然らによるいくつかの山水詩から取られているが、それだけではない。冒頭のホルンは実音で「ミラーミーレミラミー」。イ短調なのでこれは「V-I-V-IV-V-I-V」。例えば中国人作曲家呉祖強の琵琶協奏曲の冒頭の琵琶は実音で「ラララシミミー」。ホ短調で「IV-IV-IV-V-I-I」。音型は違えど、使われる音高は同じ。というほどに、中国音階への意識を感じることができる曲となっている。

19世紀末から20世紀初頭の西洋に於いては、シノワズリ(中国趣味)やジャポニスム(日本趣味)などの東洋から受ける影響への流行いわゆる「オリエンタリズム」があった。
ただ、例えばジャポニスムに関して言えば、その趣向は大きく2つの指向から成ると理解している。すなわち、ゴッホのように自分の作品の中に日本画をそのまま素材として組み込む場合(ゴッホタンギー爺さんの肖像」)と、ホイッスラーのように間と陰影、デフォルメのような日本画の思考や技法を自らの創作哲学に組み入れる場合。
この話を音楽に直接導入するのは無理があるが、ドビュッシージャポニスムの影響を受けた人と捉えた場合、日本画技法を作曲思想に組み入れたとするのは無理があるように思う。ドビュッシー的はドビュッシー的であってそれ以上も以下もない。ということは、ドビュッシージャポニスムと結びつける場合、その関係性はゴッホのそれと類似していると見たほうがいいのではないか。交響詩「海」の初版表紙はドビュッシーの指示により葛飾北斎になったが、それは彼にとって「前衛的」という意味合いが強かったのではないだろうかと想像する。「前衛的」とはつまり、それまでの西洋美術思想のコンテキスト上に無かった新しい概念の登場ということであって、それはサンサーンスの時代には無かった新しいフランス音楽の系譜を生み出したドビュッシーという存在に対してはまさにうってつけなのかもしれない。

マーラーの「大地の歌」にしても、これは通用する話であり、彼が根深く東洋思想に理解を持ったとは言い切れないところがある。しかし、東洋文化の影響の色濃さは前述の通りによく感じることができる。それはあくまでも西洋の表現形式の中に「東洋的なるもの」、すなわち「新しい概念」を埋め込んだことによって、新しい息吹、新しい生命を造りだそうとした、そういう解釈がとてもしっくりとくる。

 

今回の演奏会のテーマは「東洋-西洋のスパーク」。明確に東洋思想と西洋思想との対比を打ち出している。

なるほど、このように見れば、「二人静」は東洋から見た西洋であり、他方「大地の歌」は西洋から見た東洋である。そしてどちらも死生観をテーマに持っている。また、「二人静」が「海」を連想させる音楽であれば、「大地の歌」は大地、それも「花鳥風月」を連想させる。ここにも対比がある。

二人静」では12世紀の能楽家の死生観が登場するが、平安時代末期から鎌倉時代は「禅」が出現する時代、臨済宗を開いた栄西禅師が禅宗の基礎を築いた時代である。禅では「即心是仏」と言われるが、「自らの本質とは本来的に清らかであり悟りとはその本質を自覚することである」、ありのままの心こそが仏である、と考えられている。また、「世尊陞座(せそんしんぞ)」、文殊菩薩ブッダ釈尊、世尊)に教えを請うた際ブッダは何も語らず高座を降りた、と言われるが「何も語らない事」にこそ本質がある。つまり、自らの心に既に存在する悟りを「余所からの言葉を借りずに」自らの心の内から悟る、ここに禅の考え方がある。

二人静」は間に能楽の謡や舞が入るが、そのラストは静御前が何らかの思慮を具体的な言葉の無いままにヘレンへと授け、気付けばふと御前の霊はいなくなり、ヘレン自身の「私はどこから来てどこへ向かうのか」という同じセリフの内面に内なる変化を匂わせて終わる。ここにきても、具体的な言葉は登場せず、結論はうまく読み取れない。しかし、その能楽師が少女に語る「北へ行くつもりだろう。雪は己の足跡を消し、自らの過去を浄化する」という言葉にその結末を推し量る。禅の考え方のように、その思想では何も語らないことによって、「伝える」。受け手はそれを理解できるかと問われる。「東洋から西洋への問いかけ」である。

そして「大地の歌」では、第6楽章の詩、王維の「告別」によって次のように歌われる。

愛する大地は、春になれば
至るところ花咲き、新たに緑が萌え出る
どこまでも、はるか彼方までも永遠に青く輝くだろう
永遠に
永遠に

音楽之友社マーラー」村井翔・著、より)

西洋思想、特にキリスト教では神の国こそが永遠の所在地であり、死はそこからの永遠の始まりである。しかし、東洋思想、仏教の世界では四十九日で現世へ生き返る。すなわち「輪廻転生」である。であるから、西洋と東洋では「永遠」への哲学が異なる。人生は「刹那」である。永遠と比べればそれはただ一瞬の出来事である。だからこそ尊い。そして、永遠とはそういうものである。それがすなわち東洋の「永遠」である。

明らかに、「二人静」で提示された東洋から西洋への問いかけに対して、マーラーの「大地の歌」を置いたことによって西洋から東洋への「返答」が示されている。


ここにきて、いよいよ2つの作品の「対比」と「繋がり」が鮮明になる。


しかし、「大地の歌」を日本の「禅」で理解しようとする事は若干の無理を含む。平安の公家文化からの独立を目指す源頼朝にとって、平安仏教と対立する「禅」は保護の対象となった。また、「禅」の「内面を磨く」という思想は武家の文化によく受け入れられた。というほどに「禅」は鎌倉時代武家社会、封建制度との関係性が根深く、それを中国の山水詩の中に見出すのは違和感が残るのである。そこを深く追求すれば、では中国仏教と日本仏教の違いとは何なのかという話に入っていくため、より問題は複雑さを増す。
いや寧ろ、日本の鎌倉時代の禅思想から旅立った問いを、中国・唐時代の詩歌で返すというところにこそ、この流れの妙にして巧があると言ってもいい。中国唐時代は密教の大成を見る時代であり、大乗仏教の洗練たる禅の問いを、同じ大乗仏教の根源で返す、という流れにも見れる。それが「二人静」で提示される紛争や難民の問題、戦禍に立たされる人々へのメッセージだったりするのではないだろうか。と思いを巡らせるにつれ、そこに深い「巧み」を感じるのである。ここについては少し言葉が過ぎるかもしれないが。

 

当代最高の演奏家集団のひとつである、フランス・パリに拠点を置くアンサンブル・アンテルコンタンポラン。
その演奏は心地良い緊張感と、どこまでも精緻な音の構造と安定感が隅から隅まで広がっており、一つ一つが丁寧で全体見渡すとそこには涙が出るほどの美が広がっている。首を絞めつけられるような圧迫感のある緊張はなく、あくまでも柔らかさを含んだ緊張感なのである。
二人静」は室内楽編成とソプラノ、能声楽によって演奏される約50分1幕の音楽である。ソプラノも実に美しかった。そしてその音楽の中には能の凜とした「静」と「動」がゆったりと湛えている。アンサンブル・アンテルコンタンポランが紡ぎ出す能の持つ独特な空間美も素晴らしいが、白拍子の舞がまた、見事である。
大地の歌」は室内楽編成(「二人静」より少し大きめの編成)に、アルトとテノールによって演奏される、およそ60分ほどの音楽である。そして、アンサンブル・アンテルコンタンポランの演奏にはフルオーケストラ編成で演奏される「大地の歌」にはない、角の取れた柔らかさが溢れている。そこも実に印象的である。

2つの曲はその意味上の対比としても、プログラムの繋がりとしても、演奏の規模や内容としても申し分ないほどにバランスが良い。

この豊かなバランスの良さの中に、東洋と西洋、死生観、「永遠」への哲学、宗教観の違い、民族紛争や難民などの世界情勢が今まさに抱えている問題、そういった全体問題と個人の問題との繋がりなど、巨大にして重厚、しかし本質を突く問いが実に上手く埋め込まれていて、それがこちらの用意もできぬままにドンと投げかけられたのである。

 

深淵がそこに大きく口を開き、こちらを覗いていたのだ。


果たして、地中海の海、砂浜を面前に、弟を失ったヘレンは悟りを得ただろうか。