新日本フィルのベートーヴェン、読響のマーラー。

新日本フィルハーモニー交響楽団が設立50周年ということで、おめでとうございます。
その長い歴史のうち、たかだか10年くらいの定期会員ということでまだまだひよっこです。

中でも、15年ほど前に聞いたクリスティアン・アルミンク指揮のワーグナーローエングリン」のステージオペラの序曲は恐怖を感じるほどの美しさだったことを今も鮮明に覚えています。
あれ、あの頃は既にどっぷり定期会員だったから、定期会員は15年以上続けてることになるな。


という、そんな新日本フィルが来年から佐渡裕音楽監督に迎えるという。
一抹の不安がよぎる。

 

新日本フィルハーモニー交響楽団定期
佐渡裕指揮
リヒャルト・シュトラウスドン・ファン
バーンスタイン前奏曲、フーガとリフス」
ベートーヴェン交響曲第7番」

 

そういえば、その前の週には井上道義指揮のサンサーンス新実徳英風神雷神」、ファリャ、ラヴェルという組み合わせを聞いたので、実に2週連続の新日本フィル。こちらは定期会員ではないほうの演奏会だったのだが、和太鼓奏者の林英哲が「風神雷神」をやるということで「これは聞かないと!」と思った次第。パイプオルガンの表現可能性の奥深さもあり、案の定、というと失礼だが、大迫力で絶妙にかっこよく、素晴らしい演奏だった。和太鼓のドンという衝撃が体の芯に響く感じが何とも心地良いと感じるのは、日本人的素性から来るのだろうか。
ラヴェルボレロを何年かぶりに生で聞いたが、本当に打楽器屋泣かせだなと再認識。演奏会終わった後に撤収している最中に指揮者の目の前でスネアを叩いていた方がステージ後方の打楽器パートに戻っていくときに、打楽器パートの他の方たちから拍手で「おかえりなさい!」って迎えられていたのを見てほっこりとした。

 

ところで、R.シュトラウスバーンスタインベートーヴェン

大編成のリヒャルト・シュトラウス、ビッグバンド編成のバーンスタイン、そして通常編成というかトロンボーンなどもいないのでどちらかというと小編成に寄る名作ベートーヴェン7番。
たとえば現代曲と古典を混ぜたり、北欧の曲と北米の曲を混ぜたりすると、前半の曲の「タッチ」が残ってしまって後半が荒れる、なんていうことをよく目にする。バーンスタインベートーヴェンなんてまさにそのパターンにハマりそうだが、いや、そもそも弦楽5部含めほとんどのオーケストラメンバーはバーンスタインは「降り番」なので、そこまで荒れることはないはず、これは上手いプログラムだな、と、思った。

 

が、実際に演奏を聞いて、やっぱりそれでもバーンスタインの影響はベートーヴェンに残るものなのだな、と思い直した。

たとえば、ベートーヴェン7番第2楽章冒頭の木管tutti。この楽章の全体の空気感をイントロダクションするものとして、あれは果たして相応しかったと言えるのだろうか。
のっぺりした音はウォーキングベースとドラムのレガートの中に生まれる心地よい4beatグルーヴの上にあってはしっくりとくるが、ベートーヴェンに持ち込んではいけない。
とか、そういうものがちょっとずつ散見される。

 

どういう形態をとったとしてもバーンスタインベートーヴェンの組み合わせというものは、食べ合わせとして良くないんだろうな、という認識が戻ってくる。

佐渡裕自身は「大編成もできます、ビッグバンドもできます、それでベートーヴェンもやっちゃいます」と語っていたが、その結果としてそういう音楽が生み出されるのであれば、かなり商業主義的に偏った音楽作りに陥っているように見られる。
そこに「不安」という所以がある。

 


ふと、読売日本交響楽団マーラーを思い出した。

 

読売日本交響楽団
井上道義指揮
藤倉大「Entwine」
シベリウス交響曲第7番」
マーラー大地の歌

 

こちらは2022年1月28日の演奏会。
随分前になってしまうが、これについて文章を書こうとしてそのままになっていた。

 

そもそもシベリウスマーラーという組み合わせはどうなんだ、と始まる前は思っていた。
同時代のしかもどちらも交響曲で名を馳せた作曲家とはいえ、方や北欧でごく少ない音の組み合わせの澄み渡った詩情の中に大自然を息吹かせ、方やドイツ音楽の中でも特に大規模編成のオーケストラを駆使して重厚壮大なポリフォニーの中にこの世の全てを注ぎ込んだ。その方向性はだいぶ異なるが故に、シベリウスが崩れる、なんていう心配さえあった。

 

ところがどうだろう、この組み合わせの「妙」に思わず取り付かれてしまうほどの凄みを感じた。

 

シベリウスは生涯7つの交響曲を作っている。第5番は「白鳥が湖から大空に飛んでいくところを見た。生涯最高の瞬間だった。」というもの。静謐な弦楽で始まり静謐な弦楽による「レ」の音で終わる第6番は二短調で書かれている。二短調というのはモーツァルトのレクイエムやベートーヴェンの第九など、「死」や「旅の終わり」を暗示するものが多い。シベリウスはそのような5番、6番の後に、全てを飲み込むようなハ長調の単一楽章から成る交響曲を生み出した。すなわち第7番である。

 

他方、マーラーは生涯9つの交響曲を作っている。とはいえ、「大地の歌」は交響曲第9番になるはずの曲だったと言われていたり、第10番も1楽章は完成、2楽章以降もスケッチが残っている、などの状態なので、9つの交響曲というと少し違和感が残る。
そしてその中でも「大地の歌」は、交響曲第9番になる予定だった、しかし、マーラー自身がベートーヴェンブルックナーなどの「交響曲を9曲作ったらそこで命が尽きた大作曲者」たちのジンクスを恐れてその音楽に交響曲第9番と付けることを拒否し、「大地の歌」となった、と言われている。

 

この演奏会で演奏される2つの交響曲にはどちらも「生」と「死」に対する作曲者の魂の叫びが込められているのである。

 

読響の音は、特に管楽を中心に実に艶やかであり、若々しかった。生きる力、「蘇る力」をそこに感じた。まるで長谷川久蔵の国宝「桜図」を見ているかの如く、である。

 

第一次世界大戦フィンランド内戦が終わり、社会が新しい姿に向かいつつある中で作られた交響曲、しかしその作曲の途上では最愛の弟の死など、シベリウス自身にも悲劇が降り注ぐ。

シベリウスが描いた「死の先にあるもの」、交響曲第7番の中にそのような状況を背景とした強い生命力を感じたとき、この音楽が持っている本来の主題というものがようやく理解できたようにさえ感じたのである。

 

一方でその力というものは、マーラーの中にも湛えているのである。

天の蒼穹は 永遠にあり
大地は変わらずにあり
春を迎えて花咲き乱る
だがお前は 幾年を生きるというのか
百年と愉しむことは 許されぬもの
この大地の儚き出来事に興ずるだけ
(広瀬大介・訳)

生への執着の濃厚な絶叫の中にあって、読響の紡ぎ出す音の若々しく原色的な描き方は実に鮮やかに光る。


シベリウスにしろ、マーラーにしろ、本当はこのような「蘇る力」をこれらの曲に希求したのではないだろうか。

 

一見、全く異なる世界観を持つ音楽を2つ並べていて、組み合わせがミスマッチになっているように見えるが、同じ主張、同じ描き方を乗せることで、そこに筋の通ったテーマ、ストーリーが生まれる。それにハッと気づいた時に、なんという深みのある構成、描き方をしているんだろう、と深く心酔するのである。

 

そこに、アートたる音楽、それも作曲という行為のアートというよりは演奏という行為のアートの存在を感じた。