サントリー・サマーフェスティバル2020/オーケストラ・スペース

サントリーホール・サマーフェスティバル2020

ザ・プロデューサー・シリーズ
一柳慧がひらく~2020東京アヴァンギャルド宣言
オーケストラ・スペース

 

DAY1
高橋悠治「鳥も使いか」
山根明季子「アーケード」
・山本和智「ヴァーチャリティー平原第2部-浮かびの二重螺旋木柱列」
高橋悠治「オルフィカ」
杉山洋一指揮
読売日本交響楽団

 

DAY2
川島素晴管弦楽のためのスタディ-illuminance/juvenile
・杉山洋一「自画像」
一柳慧交響曲第11番『ピュシス』」
鈴木優人/川島素晴指揮
東京フィルハーモニー交響楽団

 

 

数週間前に武満徹の「波の盆」についてブログを書いたが、ここ何年も日本人新作管弦楽を聴き続けてきて思うのは、「波の盆」のように「何の事前知識も無く聞いて、ただその美しさに涙が流れるような音楽」に出会う事は、日本人作曲家の音楽を聴いてる限りもう無理なんじゃないかとさえ思えてきてしまう。
一つは、現代美術作品にもよく見かけられる、社会的意義の作品への持ち込みの度が過ぎる、長々といろんな事を「雄弁に語らせすぎる」というのが、毎度に気になる。そこに永遠の美は宿るのか?

 

さてはて、何の解説も読まずに聞いたらどんな感想が生まれるだろうか。

 

「鳥も使いか」平家物語っぽいね
「アーケード」可愛い声の「こんにちは」ってのが出てきた。あとピコピコしてた。
「浮かびの二重螺旋木柱列」とにかくマリンバがくっっそかっこいい
「オルフィカ」よく分からん
「illuminance/juvenile」指揮者大丈夫?
「自画像」星条旗よ永遠なれ、のやつ
「ピュシス」なんか暗い

 

 

昨年のサントリーサマーフェスティバルのジャレルによる作曲ワークショップで、「引用」を行うことで聴衆の耳はどう理解するか」という話があったように思うが、あの話はどこへ飛び去ってしまったのだろう、と思う。各曲は「作曲者の意図通りに聴衆の耳が理解することを期待している」んだな、と率直に思う。

 

特に杉山さんの「自画像」は、ここ半世紀ほどの世界各国の戦争や紛争を時代を追いながら、各国の国家や州歌などと共に見直す、という趣旨だが、その重なりは複雑に絡まるが故にその中に戦いはあまり見えてこず、後半になってまぁまぁ重厚な金管アンサンブルによる「星条旗よ永遠なれ」が出てくることで、また結末に登場する敬弔ラッパによって、どこか米国を賞賛する音楽のようにさえ聞こえてくる。バスドラムとサンダーシートが3セット、マーラーの「悲劇的」のハンマーのように世界に一撃を加えていくのだが、これ3セットだからいいとして2セットだったらそこに9.11を思い浮かべてますますアメリカ的な意味を強く感じていただろうな、と。全く作曲者の意図とは異なるが。

 

一つ前の「illuminance/juvenile」。第1楽章は「光の物理現象を音楽の中に登場させることで、暗い意味不明な現代音楽から脱却」という話だが、にしては高音と金属性質音の多用に明るさを期待しているようにも見てとれる。第2楽章は「幼年性」をテーマに、指揮者がめちゃくちゃにただ自分の好きな音だけをオーケストラに演奏させることによって、最後にオーケストラに見放される、というストーリーなのだが、子供に幼稚性を求めすぎているようにも思える。子供は子供の中での大きな世界があって到達すべき頂上がある、という目線から、もっと違う展開もできたんじゃないかなという思いが残る。

今この時代というものを思い返すと、その世界は少し籠の中の鳥のような、旧態的な雰囲気を感じる。いや、指揮者(作曲者による指揮だったが)の運動量的負担が極端に激しかったし、あれ暗譜でこなすという事も含めて、見ていて慰労したくなるのだが。

 

総じて、特に2日目は、一柳さんの新作交響曲も含めて全曲世界初演ながら「20世紀的アヴァンギャルド」へ押し戻そうとする引力の非常に強い構成だったように思う。この音楽を、この時にやるのか。日本はまだこうなのか、という不安感さえ持つ。

 

この構成にターネジか、マクミランあたりの音楽を入れたら、どんな感じになっていただろうか。

 

 

DAY1。

高橋さんの「鳥も使いか」。三絃(三味線)の恋唄弾き語りの中、どこか諸行無常の感が覆い被さってくる。指揮者が部分を区切る磬子(けいす、仏教の鐘)を鳴らすと、それぞれの部分が清められていく。そして生み出される崇高な「場」は祭りの冒頭として良い存在感を残したように思う。三絃もなかなかにかっこよかった。

 

山根さんの「アーケード」。
調製音楽、和音へのリスペクトを残したまま、街中(特にゲームセンター)で流れる音の構成をそのまま、エレクトロニクスによる「こんにちは」というキャラクターボイス、8bit音楽も要素として取り入れながら、そのカオスをオーケストラに再現する。
このサブカル的空気感の色濃い混沌は、なるほど東京らしさがある。大阪でも名古屋でも仙台でも福岡でもなく、東京らしい、少し悪臭さえも漂ってきそうな、渋谷か、新宿か、池袋か、秋葉原か、そこらへんのローカル感が見事に再現されていて、なるほどこれは「東京アヴァンギャルド」のテーマに対する回答として非常に秀逸だと感じた。山根さん凄いな、と素直に感嘆。実のところ、この曲が2日間の中で最も気を引かれた。
今年のサマーフェスティバルでは室内楽のほうで「水玉コレクションNo.4」を10年ぶりに聞いて、「こんな曲だったっけ?」「もっとラジカルな音楽じゃなかったっけ?」「なんかちょっと違和感あるな」と思っていたが、この曲を聞いて改めて山根さんの凄さを改めて理解できたように思う。

 

「浮かびの二重螺旋木柱列」。金管少なめなオーケストラと大規模打楽器群、ガムランアンサンブルとマリンバ独奏がお二方。とにかく巨大編成で、そのインパクトが凄まじい。それに引けをとらない、マリンバ独奏のお二方の鬼気迫る演奏の迫力が、まぁかっこいいこと。圧巻。

ガムランという特殊な調製を持った東洋音楽と、オーケストラによる西洋音楽、それを仲介する西洋的とも民族音楽的ともとれるマリンバ。しかし、その音楽の中には「西洋対東洋」という単純な対立構造はあまり強くない。どちらかというと、Dbの音を中心軸として高度に調和がなされている音楽。ガムラン側もそれほどに圧の強くない、キャラクターを全面に出てくるような感じでもなく、オーケストラ側もそちらに少し合わせるような展開をしていて、それらを含めて、実に上手くプログラムされている構成だと思えた。

ただ、明確な音楽的対立構造が無かったことで、逆にそういうものを期待していた人からすれば、ちょっと物足りなさもあったかもしれないが。自分としてはとても素晴らしい音楽だと思った。

 

しかし、サントリーホールの委嘱作品なのに「演奏されること、再演されることを前提としていない」曲っていうのは、なかなかロックだ。
かっこいい音楽だったけど、2度目に聞ける機会は果たしてあるだろうか。

 

高橋さんの「オルフィカ」。
これぞ、20世紀的アヴァンギャルドの代表格のといったような、割と散らかった構造を垣間見る。確かにこの曲だけ極端に古いの(1969年の作品)ではあるが。 
この曲がDAY1の最後、ということはやはり、そういう意味を持った演奏会なんだな、と意識を戻される。

 

 

DAY1の最後から、DAY2へと流れる世界観を繋いで振り返って、うーん・・・、という感覚が残ってしまった。