スウェーデン放送合唱団×都響、モツレク

舞台の上で音は生まれ、そして、そこで永遠に失われる。
たとえ録音していたとしても、ホールいっぱいに響いた音は、二度とそこには戻ってこない。


スウェーデン放送合唱団
東京都交響楽団
ペーター・ダイクストラ指揮

リゲティ:ルクス・エテルナ
シェーンベルク:地には平和を
モーツァルト:レクイエム


リゲティからして「人間の声というのはかくも美しく在り得るのか」と感嘆する。ディミヌエンドの、一本の線が描きだす線の美しさ。小さくても奥行きの深い深い音像。まるで、等伯の松林図屏風を見ているかのような。観客の咳でさえ憎く感じるほどの音空間。
そのまま、「これは今年のサントリー芸術財団サマーフェスティバルの続きか?」とでも思ってしまう。
まさか1曲目からこのような事態になるとは、予想外である。

ふんわりとしたクッションのような、古典的な空気を持つシェーンベルク。少しオケが引き気味だったか。

からの、モツレク

「奉献誦から先は、ジュスマイヤーの作だし、前時代的だし、好まない」とか「奉献誦から先は演奏しない」とかいう人もちらほらいるが、それには個人的には否定的。
ラクリモサまでで終えてしまうのは音楽的に少し中途半端な感じもあるし、奉献誦から先もモーツァルトのメモ書きを元に作られているわけで、そしてそこがいかに魅力的な音楽であるか、というのはむしろ指揮者の解釈や表現力が生み出すべき問題である。そこを放棄するということは、自分たちの表現力の無さを単に露呈するだけだ。

その点、今日のモツレクはまさに教科書に載せたくなるくらいの、「モーツァルトかくあるべき」という見本のような演奏であったように思う。

この音楽はベートーヴェンの第九ではない。マーラーの8番でもない。レクイエムであって、ミサ曲なんだ。その根底にあるものは哀悼であり、慈愛であり、信仰なのであり、であるべきである。

バロックティンパニや、ビブラートをかけない古典的な演奏スタイルのオーケストラは、ある意味、意図して強い響きを殺してきているが、それでもコーラスとのバランスはなかなか抜群であった。強いて言えば、テノールソロがめっきりと線が細い。

その「強く響かない」古き良き音は、虚空への消え方も早い。

あぁ、待ってくれ。俺の耳からそんなに早く消えていかないでくれ、音よ。