伶楽舎/武満徹「秋庭歌一具」
2016/11/30 伶楽舎第十三回雅楽演奏会
ダンス 勅使河原三郎
紀尾井だったり初台だったり、過去何回か雅楽を見に来ているのだが、東京楽所と伶楽舎の違いなのか、「あれ?雅楽ってこんな感じだっけ?」とふと思う。いや、過去にも伶楽舎の演目は見てるはずだが。
何より、2006年にオーケストラ・アンサンブル金沢東京公演で東京楽所と披露した石井眞木の「声明交響II」で見た荘厳な雅楽の印象が強いのだが、今日見た雅楽はどちらかというと「ファンキー」という言葉のイメージが近く、随分と荘厳とは対極な雰囲気の雅楽を見たなぁ、という印象。そして、雅楽の幅広さと奥深さを知ったようでもある。
観客に20代くらいの若人が多い。いささか謎だったが、これはコンテンポラリーダンスの第一人者勅使河原氏との共演が理由か。それでこのファンキーな雅楽とコラボして「魅せる」というのは、企画者の辣腕を見せつけられた感じもある。前述したような雅楽の「荘厳」を求めて来た方には、違和感のある公演だったかもしれないが。
芝祐靖のほうは、彼の時代の「うたげ」を再現した形。導入の「うた」から閉宴の「うた」に至る、一つの宴。照明も白びた朝焼けから、昼間の緑の映え、そして橙から紅、漆黒へと移ろいゆく夕暮れへ、と1日を通して過ぎてゆき、日がな一日続く楽しげな宴の様を映し出す。
うたい、おどり、時に酔っ払いさえも出現するが、その時間感覚はゆったりとしており、酔っ払いが他の演者に絡む様もどこか雅びである。緊張感と和やかさが同居していて、なんだか心地良い。
儀式的な感じは全くといっていいほどに、ない。
武満徹。
宮内庁式部職楽部の演奏を擦り減るほど聞いていたけども、「あれ?秋庭歌ってこんな音楽だったっけ?」と思ったのが第一印象。悉くCDで聞いていた内容と違う。
舞台上の管弦と2階客席3方に分かれた管楽が、お互いにその響きを木霊してゆく。悠久の響きという感じは、ほとんどない。その響きは実にコンテンポラリーであって、CDで体験できなかった音空間がそこに繰り広げられている。
たまに聞いた事のある旋律が耳に入ってくるものの、それ以外はがっつり現代音楽らしい、複雑怪奇さが匂ってくる音楽。この曲にはそんな印象は今まで持っていなかったのだが、それが武満の意図だったのか演出によるものだったのか、そこからよく分からなくなる。
という側面もあったからかもしれないが、勅使河原氏の、ゆっくりとゆったりとしながらも一つ一つの所作、指先の動きまでもがどこまでも美しく、言葉は無いが多くの事を語りかけてくるダンスがあまりにも凄すごて、ただそれを見ているだけではその世界に深く深く引きずり込まれていき、と同時に音楽がますます遠い存在になっていく。見ながら聞く、という作業に実に難しい演目。
空間的に、ファンキーだ。
雅楽を「儀式的な音楽」という認識だけで見ようとすれば、今日の構成はどちらの曲も違う。むしろ、儀式という括りの中に求められる芸術性よりも、遥かに遠くを目指した芸術性がそこにあるようにも思う。
儀式性を重んじたからこそ、雅楽は仏教へも上手く取り込まれてきたわけだし、宮中行事として一千年を優に超える歴史を持つことができたわけで、そこが雅楽としての本流という立ち位置であるのだろうな、と思ってきたわけだ。が。
雅楽という音楽世界の理解を、私は今まで間違って捉えていたのかもしれない。
ピーターラビット展〜ビアトリクス・ポター生誕150周年
北イングランドは湖水地方の、雄大だけど静かでのどかな大自然と田舎暮らしの中にあって、その畑や森で暮らすウサギやリス、ネズミたちの小さな冒険の世界。
展覧会の中でその物語の1つ1つが丁寧に説明されていたこともあってか、会場全体がピーターラビットの世界の草木がそよめくような風が吹き、その香りさえ漂ってきそうな雰囲気で、とても心地よい。
ビアトリクス・ポターの絵を挿絵ではなく絵画として見る機会はなかなか貴重だろう。そして、どうしても印刷物だと色彩のコントラストが強めに出てしまうが、実際の原画はもっと柔らかい日差しが差し込んでいて、さながらカミーユ・ピサロの描く印象派の風景画でも見ているようである。
博物学に興味持ち、死んだウサギを解剖して骨格を調べたポターらしく、描かれたどの動物たちも、キャラクターでありながら変にデフォルメされすぎない。絵の中のウサギだが触ればふんわりと毛並みが柔らかく、血の通ったいきものの温もりや、お尻のふんわりずっしりした感じ、息使いによるお腹の動きさえ感じられそうなリアリティがある。なでれば鼻をひくひくしそうな!そこが、いわゆるマンガキャラクターとは違う。実にかわいい。
小動物としての温もりや柔らかさを残しながら、しかも解剖学的にそこまで「変じゃない」動きを残しながら、ある時はホクホクとにんじんをほうばり、ある時は捕まりそうになって涙を流して泣く。そこに、ポター自身の並々ならない動物たちへの愛情が垣間見える。
そんな動物たちが印象派の風景画のような世界で二本足で立って洋服を着て大冒険するのだから、どこか現実と空想が絶妙に交錯してて、藤子・F・不二雄が描いたSF「すこし、ふしぎ」が、遠い異国の地で100年も前に違う形で実現されてたんだなぁ、と思いを馳せる。
日本のキャラクター文化はデフォルメが過ぎる感があるから、そこに食傷している人にとっては逆に新鮮なのかもしれない。
子供たちは、そんなピーター・ラビットの世界に入り込むことで、動物の生態や動物に向けられる愛情、自然保護や、ファンタジーとしてのSF「すこし、ふしぎ」や、印象派風景画の世界や、いろんなことを吸収していくんだろうな。
とても心地よい展覧会だった。
単独者たちの王国〜めぐりあう響き
サントリー芸術財団サマーフェスティバル2016
ザ・プロデューサー・シリーズ
佐藤紀雄がひらく
〈単独者たちの王国〉〜めぐりあう響き
・クロード・ヴィヴィエ「ジパング」
・マイケル・トーキー「アジャスタブル・レンチ」
・武満徹「群島S.」
・リュック・フェラーリ「ソシエテII〜そしてもしピアノが女体だったら」
・(アンコール)武満徹「波の盆 - 第1曲」
佐藤紀雄 指揮
アンサンブル・ノマド
20世紀というドビュッシーからシュトックハウゼンまでいた激動の音楽史の中で、作曲技法における主義のコンテキストから一歩はずれ、自らの信念によって自らのの美的世界を独自に生み出した「単独者」たちの饗宴。
今日の演奏に、「芸術」という無限に壮大なものの中の、最も奥深い本質を垣間見たような気がした。
ヴィヴィエ「ジパング」。
弦楽合奏だが多彩なボウイングを駆使することで、その音色の幅が豊かになる。しかして、その音は全体的にどこかドライであったように思えたのは席のせいか、曲のデザインゆえか。それはどうにもまるで月夜の砂漠のような印象でもあり、「ジパング」という名前の不思議にふわっと包まれた。(曲目解説上にも詳しい由来はなかった。)
トーキーの「アジャスタブル・レンチ」。
曲目順でこの位置に最適な、クッションのようなオシャレなお菓子を置いて壮大なメイン料理に備えるような、とにかくポップで可愛らしい感じの音楽。木管楽器がリードする小粋でノリのいい4小節一区切りのリズムに乗せて、様々な楽器が交差し発展しながら音楽が展開していく姿は、さながらミニマルミュージックのような心地良さ。
そして、曲順が前後するが、問題のフェラーリの「ソシエテII」。
まずピアニストが蛍光イエローのポロシャツ、ハーフパンツ、スニーカーというランニングウェアで登場したところから、何やら不穏な雰囲気。打楽器ソロ3人も動きやすい格好ではあったが、打楽器というパートの性格上、それはそれほど違和感はなかった。
この音楽の内容はといえば、20世紀中盤に一種流行した無調無拍子の前衛感丸出しの音楽。ピアノは内部奏法やら、腕全体で鍵盤を叩き音をクラスタリングしたり、ピアノの縁を鞭で叩いたりと自由奔放。打楽器も3人がそれぞれ舞台上を楽器や楽譜、マイクを持ちながら縦横無尽に動き回りとにかく叩きまくる。ピアノの中にボンゴを置いて、ボンゴとピアノを同時にマレットやらドラムスティックやらで叩きまくる。かと思えば、打楽器奏者がピアノの前に座っているピアニストを引きずりおろして自らピアノの鍵盤を叩く。弾く、というより叩く。ピアニストはヤケになったか、打楽器を叩き出す。指揮者は演奏の途中で何かを放棄したかのように、指揮台の隣に置かれたソファに座っておもむろに新聞を読み始める。一応背後にオーケストラがいるのだが、この4人の熱量が凄すぎて、聞いた後に「あれ?どんなことやってたっけ?」と思われても致し方ないのかもしれない。もはや「この音楽に楽譜というものは存在するのだろうか?存在する必要性はあるのだろうか?」とさえ思うほどの音の嵐。
その音がふっと消え、指揮者は観客に礼をする。観客の拍手と「ブラボー」の叫び。指揮者は舞台袖へ捌ける。かと思えば突如ピアニストがオーケストラに向かってさらにしっちゃかめっちゃかな演奏を再開。指揮者は走って指揮台に戻り、演奏を「止めさせる」。
再び拍手。
「呆気にとられる」とはまさにこのこと。
目の前に座っておられた女性が演奏中その熱量にやられたようで、終始クスクス笑い続ける。最初怪訝に思っていたが、打楽器奏者がピアニストを引きずりおろしたあたりから、「あぁ、これは狙ってやってるわけだから、笑うのが正解かもしれない」と思えてきた。プロデューサー佐藤氏自身によるプログラム解説にある、「(作曲者は)作品から逃れられない宿命を演奏家にあずけたあと、自分は一歩引いたところで笑みを浮かべて眺めて楽しんでいたに違いない」という言葉をふと思い出し、笑いも含めたところで作曲家の掌の中にいたんだろうな、とさえ思った。
人間、思想、哲学、倫理、宗教、国家、政治、戦争、自然、愛、希望、美、憎しみ、卑しみ、醜さ、絶望、死、生…この世の全ての表現対象を遥かに超えてそのずっと奥底の、最も根深いところに「笑い」を置いたことによって、芸術というものの重さと、それに対して表現家のやっていることの軽さを同時に目に見える形で提示したのではないだろうか。
「だかこそ」なのだが、フェラーリの前にやった武満徹の音楽が必要だったのだ。この武満徹の緻密で圧倒的に高い完成度があったからこそ、前述の主張が極めて立体感を帯びてくる。
武満の「群島S.」は、5つのグループに分かれたオーケストラが、それぞれに響き合い、さながら「群島」の自然美を醸し出すわけだが、これがとんでもなく美しい。
武満の音楽はシベリウスと少し似通ったような雰囲気を個人的に感じていて、それは何かといえば音の数が少なくなればなるほどに澄み渡った美しさがどんどん増していく。少ない音の集合で透き通った大自然を表現してゆくがゆえに、アラが出れば濁りはよく目立つ。
「群島S.」はその名の通り、やや短めなフレーズがふとした無音を飛び越えながら繋がっていく。それぞれのフレーズの一つ一つの仕舞い方が濁りなく丁寧であるほど、その無音は美しく光り輝く。そしてそれは実に美しいものであった。客席に別れた2本のクラリネットの響き合い、途中のトランペットソロ、ファゴットソロ、ホルンソロ。どれも美しい。「武満徹の音楽を体験する」ということに対しては十二分な完成度の高い音楽だった。
「単独者の王国」、各作品は全くその国籍も時代も作風も方向性も編成さえもバラバラではあったが、こう一通り見終わってみると、最初から最後に至るまで実に自然な流れの中で「芸術とは」という核心へと知らぬ間に徐々に迫っていく、実に意義深い演奏会であった。
凄いものを見た。
武満徹「ジェモー(双子座)」
サントリーホール30周年記念
タン・ドゥン指揮
三ツ橋敬子指揮
東京フィルハーモニー交響楽団
武満徹「ジェモー(双子座)」
タン・ドゥン「オーケストラル・シアターII:Re」
武満徹「ウォーター・ドリーミング」
タン・ドゥン「3つの音符の交響詩」
何故この曲順になったのか、なんならなぜこの曲順に「変更した」のか、少しよく分からない。
3つの音符→ウォーター・ドリーミング→ジェモー→Reのほうが個人的にはしっくりきたような気がする。タン・ドゥンは「東洋人は"Less is More(より少ないことによって、より豊かになる)"の感覚を持つ」と語ったが、ならば3つの音から出発し1つの音へと帰着するほうが、流れとして自然なようにも感じる。ちなみに、「Less is More」はミース・ファン・デル・ローエの言葉、というイメージがあるので「東洋人ならば」と言われると個人的にいささか違和感を覚える。
武満:ジェモー。
美しい。武満らしい満ちては引く波の、繰り返される訪れのような音の流れの中に、ふんわりと佇みその宇宙と一体化するような感覚。
特にスティーブン・ブライアントのトロンボーンの豊かで暖かく優しい音の、オーケストラへの乗り方が実に心地良い。良い演奏だった。
それと、CDだとどうしても分かりにくい、2群のオーケストラが互いに絡みみあっていく様子を目の前で見れた事もよい収穫だった。と同時にこの曲の主題は「2」。2つの目、2つの耳、2つに分かれた脳が一人の人間を動かす。それを聞くときに、やはり2つの音群の「境目」が感じられないと、この音楽の核心には踏み込めなさそうだな、とも思った。
タン・ドゥン:オーケストラル・シアターII:Re。
「観客と一緒に作る」という発想は現代芸術の一種の流行りだが、なかなかこのようなコンサート会場で見かけることは少ない。観客自身も演奏者となるが、さらにアーティキュレーションまで求められたことによって、実に観客に緊張感が要求される音楽だった。
数年前にサントリーホール内でお茶会に参加したジョン・ケージ「ミュジサーカス」を彷彿とさせるこのような「特別な体験」こそが、サントリーサマーフェスティバルの醍醐味だよな、と再認識。
客席各所に散らばった木管奏者たちが、おどろおどろしく「レ」を響かせば、バスが呪文のように意味の無い言葉を繰り返す。それに引き込まれるように観客もまた同じ言葉を唱える。時に二人の指揮者も静寂を求めるような語りを散りばめる。絶妙な緊張感の中、東フィルの演奏は緻密にコントロールされていた。まさに「怪演」。
ただ、音楽の流れの中に「輪廻転生」(或いはresurrection)の流れを明確に感じるかというと、そうでもないわけだが、しかし儀式的な性格が強いために、何やら信心深さを試されているようでもある。新しい宗教でも誕生したか。
武満:ウォーター・ドリーミング。
これは少し額縁の中にコンパクトに収められすぎていたか。伸びやかさがもう少し欲しいところ。特にフルートソロ最初のBbにはどこか幼児的性格を纏っていたように聞こえる。もう少し全体的に神話的性格が求められてもいいのではないかな。
タン・ドゥン:3つの音符の交響詩。
現代音楽にしてはノリノリな、協和音もいっぱい聴ける(謎)楽しい音楽。サントリーホールのお誕生日に相応しい音楽だった。
祝典音楽的に聞こえたのは作曲者の前振りがあったからかもしれないが、であればやっぱりこれが最初でもよかったんじゃないかなぁ。
ももいろクローバーZ「桃神祭2016〜鬼ヶ島」
「鬼は日常生活の中にも居ます。会社の上司や、学校の先生、お父さんやお母さん。でも、みんな自分を良い方向に導こうとしてくれる存在でもある。」
ももいろクローバーZ(以下、ももクロ)の高城れにちゃんは、夏ライブ「桃神祭2016〜鬼ヶ島」2日目のラストの挨拶でこんなことを言った。「神」と「鬼」の同一視である。
世の中の物事を「善」と「悪」の二項対立に判断するのは思想の欧米化とも言える。元来東洋思想の原理は「陰陽」であって、それは光と闇、昼と夜、夏と冬のようにお互いがお互いを補完しつつ排反しつつ、夫々の中に善も悪も存在している、という二項対立である。
近年の社会風潮として善悪二項対立をよく目にする。しかし陰陽を思想の根幹とする東洋人にとっては少なからず違和感を得るべきである。日本の政治について例を出すと角が立つが、例えばISをはじめとするいわゆる過激派によるテロを見るに、彼らは彼らの思想として決して「悪い事をしよう」としてテロを起こしているわけではなく、彼らは彼らの信じる「正義」に基づいてテロを起こしている。その正義が我々の理解している正義とは異なる、というだけのことであり、彼らの正義が我々に悪の存在となる、と同時に我々の正義もまた彼らにとっての悪となるのだ。
短絡的に「良い人は常に良い」「悪い人は何が何でも悪い」という発想は理解には易しいが実に幼稚だ。或いは、日本人は倫理思想として、難しいことを考えられなくなってきているのではないだろうか?
その言い知れぬ不安感を、ももクロという存在が一度洗い流してくれたのは、個人的に実に新鮮だった。特にれにちゃんは本能的に「和」の心を理解しているように思う。
日本文化の「和様」の内側もまた、二項対立で語られることが多い。古くはアニミズムの呪術的な色彩の強い荒々しい縄文的なる文化と、気品高くしなやかで均整美に富んだ弥生的なる文化との対がある。弥生時代の生活が大陸文化渡来の影響が強いことから、日本美術史家の辻惟雄はこれを「土着の美意識」と「混血の美意識」と語った。
私はこの対立を「雅」と「俗」と見る。もっともこれは雅楽と俗楽という音楽的分類を基点とした言い方に他ならないが。平安期以降の宮廷文化、朝廷文化、狩野派を中心とした絵画世界、雅楽や舞楽を「雅び」ととれば、それ以外の庶民文化、あそび、へうげもの、数寄、琳派的なるもの、浄瑠璃や長唄、民謡、こういったものは「俗」ともとれる。明治以降に西周らによって「芸術」という概念がもたらされた結果、多くの「俗」文化が「非芸術的なるもの」とみなされたが、それ以前の世界においては「雅」と「俗」は今より成熟した均衡のとれた関係であったと想像できる。
もっとも、「雅」が前出の弥生的なるものの後継関係に当たるのかといえば必ずしもそうとは言い切れない。雅楽や舞楽、あるいは「神を祀る」という風習はどちらかといえばアニミズムつまり太古から脈々と続く日本の陰翳礼賛たる自然崇拝史の延長と考えたほうがしっくりくる。
そういった潮流を思い描くに、752年に執り行われた東大寺大仏開眼法会では日本で太古から受け継がれる神を崇める舞楽と、インドから中国を経て伝わった大陸文化である仏教声明が同時に奉納されたわけであるから当時の日本文化においては実に画期的な「エポックメイキングな」出来事であったことは想像に難くない。
「俗」なる文化は常に庶民文化と隣り合って歴史を刻んできたわけであるから、これが現代琳派から「萌え」文化、サブカルやポップカルチャーと親和していくのもさほどに難はない。少し強引に単純化して言えば「和をモチーフにした」と銘打っているもののほとんどがこちら側である。わっしょいした世界、どんちゃんした世界が日本文化かと言えば、僕個人的には「雅び」が無ければそれは「和」の文化に対して片手落ちではないか、と思っている。断っておくが、色彩感的に派手なものが即ち「雅び」ではない。
ところが、ことももクロに関して言えば「俗」文化とポップカルチャーとの融合はさることながら、「雅」文化との融合を試みつつある。うっすらと去年あたりから感じてはいたが、確実に感じたのはライブ中に舞楽奉納を行った太宰府ライブからだ。神聖で高貴なる日本宮廷文化の美学とポップカルチャーとの融合、これはまったくもって前出の東大寺開眼法会に匹敵するほどに衝撃的な、エポックメイキングな事態である。
おそらく東大寺のそれが当時の人々から感じ取られたであろう強烈な違和感と同じように、今ももクロがやっていることは現代に生きる我々にとって違和感の強い現象だろう。ひょっとしたらその試みは最終的に上手くいかないかもしれない。ただ、そこが「文化」の新しい扉の開く瞬間だという密かなる確信もまた持てるのだ。
そういった、歴史、とりわけ文化史の転換点に今遭遇している、遭遇できていることは、大変に貴重な経験なのではないかと思うのである。そして、元東大准教授の故・安西先生が著書の中で言及されていた、「包括的なももクロ論を最初から破棄せざるを得ないほどの、ももクロが持つ多様な島宇宙」の吸引力こそがそれを実現する原動力なのだろう。