伶楽舎/武満徹「秋庭歌一具」

2016/11/30 伶楽舎第十三回雅楽演奏会

芝祐靖「露台乱舞」
武満徹秋庭歌一具

ダンス 勅使河原三郎

 
紀尾井だったり初台だったり、過去何回か雅楽を見に来ているのだが、東京楽所と伶楽舎の違いなのか、「あれ?雅楽ってこんな感じだっけ?」とふと思う。いや、過去にも伶楽舎の演目は見てるはずだが。

 何より、2006年にオーケストラ・アンサンブル金沢東京公演で東京楽所と披露した石井眞木の「声明交響II」で見た荘厳な雅楽の印象が強いのだが、今日見た雅楽はどちらかというと「ファンキー」という言葉のイメージが近く、随分と荘厳とは対極な雰囲気の雅楽を見たなぁ、という印象。そして、雅楽の幅広さと奥深さを知ったようでもある。
 
観客に20代くらいの若人が多い。いささか謎だったが、これはコンテンポラリーダンスの第一人者勅使河原氏との共演が理由か。それでこのファンキーな雅楽とコラボして「魅せる」というのは、企画者の辣腕を見せつけられた感じもある。前述したような雅楽の「荘厳」を求めて来た方には、違和感のある公演だったかもしれないが。
 
芝祐靖のほうは、彼の時代の「うたげ」を再現した形。導入の「うた」から閉宴の「うた」に至る、一つの宴。照明も白びた朝焼けから、昼間の緑の映え、そして橙から紅、漆黒へと移ろいゆく夕暮れへ、と1日を通して過ぎてゆき、日がな一日続く楽しげな宴の様を映し出す。

うたい、おどり、時に酔っ払いさえも出現するが、その時間感覚はゆったりとしており、酔っ払いが他の演者に絡む様もどこか雅びである。緊張感と和やかさが同居していて、なんだか心地良い。

 儀式的な感じは全くといっていいほどに、ない。

 

 武満徹

 宮内庁式部職楽部の演奏を擦り減るほど聞いていたけども、「あれ?秋庭歌ってこんな音楽だったっけ?」と思ったのが第一印象。悉くCDで聞いていた内容と違う。

 舞台上の管弦と2階客席3方に分かれた管楽が、お互いにその響きを木霊してゆく。悠久の響きという感じは、ほとんどない。その響きは実にコンテンポラリーであって、CDで体験できなかった音空間がそこに繰り広げられている。

たまに聞いた事のある旋律が耳に入ってくるものの、それ以外はがっつり現代音楽らしい、複雑怪奇さが匂ってくる音楽。この曲にはそんな印象は今まで持っていなかったのだが、それが武満の意図だったのか演出によるものだったのか、そこからよく分からなくなる。

 という側面もあったからかもしれないが、勅使河原氏の、ゆっくりとゆったりとしながらも一つ一つの所作、指先の動きまでもがどこまでも美しく、言葉は無いが多くの事を語りかけてくるダンスがあまりにも凄すごて、ただそれを見ているだけではその世界に深く深く引きずり込まれていき、と同時に音楽がますます遠い存在になっていく。見ながら聞く、という作業に実に難しい演目。

 空間的に、ファンキーだ。

 

 雅楽を「儀式的な音楽」という認識だけで見ようとすれば、今日の構成はどちらの曲も違う。むしろ、儀式という括りの中に求められる芸術性よりも、遥かに遠くを目指した芸術性がそこにあるようにも思う。

儀式性を重んじたからこそ、雅楽仏教へも上手く取り込まれてきたわけだし、宮中行事として一千年を優に超える歴史を持つことができたわけで、そこが雅楽としての本流という立ち位置であるのだろうな、と思ってきたわけだ。が。

雅楽という音楽世界の理解を、私は今まで間違って捉えていたのかもしれない。

ピーターラビット展〜ビアトリクス・ポター生誕150周年

@Bunkamura ザ・ミュージアム


イングランド湖水地方の、雄大だけど静かでのどかな大自然と田舎暮らしの中にあって、その畑や森で暮らすウサギやリス、ネズミたちの小さな冒険の世界。

展覧会の中でその物語の1つ1つが丁寧に説明されていたこともあってか、会場全体がピーターラビットの世界の草木がそよめくような風が吹き、その香りさえ漂ってきそうな雰囲気で、とても心地よい。

 

ビアトリクス・ポターの絵を挿絵ではなく絵画として見る機会はなかなか貴重だろう。そして、どうしても印刷物だと色彩のコントラストが強めに出てしまうが、実際の原画はもっと柔らかい日差しが差し込んでいて、さながらカミーユピサロの描く印象派の風景画でも見ているようである。

 

博物学に興味持ち、死んだウサギを解剖して骨格を調べたポターらしく、描かれたどの動物たちも、キャラクターでありながら変にデフォルメされすぎない。絵の中のウサギだが触ればふんわりと毛並みが柔らかく、血の通ったいきものの温もりや、お尻のふんわりずっしりした感じ、息使いによるお腹の動きさえ感じられそうなリアリティがある。なでれば鼻をひくひくしそうな!そこが、いわゆるマンガキャラクターとは違う。実にかわいい。

小動物としての温もりや柔らかさを残しながら、しかも解剖学的にそこまで「変じゃない」動きを残しながら、ある時はホクホクとにんじんをほうばり、ある時は捕まりそうになって涙を流して泣く。そこに、ポター自身の並々ならない動物たちへの愛情が垣間見える。

 

そんな動物たちが印象派の風景画のような世界で二本足で立って洋服を着て大冒険するのだから、どこか現実と空想が絶妙に交錯してて、藤子・F・不二雄が描いたSF「すこし、ふしぎ」が、遠い異国の地で100年も前に違う形で実現されてたんだなぁ、と思いを馳せる。

 

日本のキャラクター文化はデフォルメが過ぎる感があるから、そこに食傷している人にとっては逆に新鮮なのかもしれない。


子供たちは、そんなピーター・ラビットの世界に入り込むことで、動物の生態や動物に向けられる愛情、自然保護や、ファンタジーとしてのSF「すこし、ふしぎ」や、印象派風景画の世界や、いろんなことを吸収していくんだろうな。

 

とても心地よい展覧会だった。

 

単独者たちの王国〜めぐりあう響き

サントリー芸術財団サマーフェスティバル2016

ザ・プロデューサー・シリーズ

佐藤紀雄がひらく
〈単独者たちの王国〉〜めぐりあう響き

 

・クロード・ヴィヴィエ「ジパング
・マイケル・トーキー「アジャスタブル・レンチ」
武満徹「群島S.」
リュック・フェラーリ「ソシエテII〜そしてもしピアノが女体だったら」
・(アンコール)武満徹「波の盆 - 第1曲」

 

佐藤紀雄 指揮
アンサンブル・ノマド

 

20世紀というドビュッシーからシュトックハウゼンまでいた激動の音楽史の中で、作曲技法における主義のコンテキストから一歩はずれ、自らの信念によって自らのの美的世界を独自に生み出した「単独者」たちの饗宴。

 

今日の演奏に、「芸術」という無限に壮大なものの中の、最も奥深い本質を垣間見たような気がした。


ヴィヴィエ「ジパング」。
弦楽合奏だが多彩なボウイングを駆使することで、その音色の幅が豊かになる。しかして、その音は全体的にどこかドライであったように思えたのは席のせいか、曲のデザインゆえか。それはどうにもまるで月夜の砂漠のような印象でもあり、「ジパング」という名前の不思議にふわっと包まれた。(曲目解説上にも詳しい由来はなかった。)

 

トーキーの「アジャスタブル・レンチ」。
曲目順でこの位置に最適な、クッションのようなオシャレなお菓子を置いて壮大なメイン料理に備えるような、とにかくポップで可愛らしい感じの音楽。木管楽器がリードする小粋でノリのいい4小節一区切りのリズムに乗せて、様々な楽器が交差し発展しながら音楽が展開していく姿は、さながらミニマルミュージックのような心地良さ。

 

そして、曲順が前後するが、問題のフェラーリの「ソシエテII」。
まずピアニストが蛍光イエローのポロシャツ、ハーフパンツ、スニーカーというランニングウェアで登場したところから、何やら不穏な雰囲気。打楽器ソロ3人も動きやすい格好ではあったが、打楽器というパートの性格上、それはそれほど違和感はなかった。

 

この音楽の内容はといえば、20世紀中盤に一種流行した無調無拍子の前衛感丸出しの音楽。ピアノは内部奏法やら、腕全体で鍵盤を叩き音をクラスタリングしたり、ピアノの縁を鞭で叩いたりと自由奔放。打楽器も3人がそれぞれ舞台上を楽器や楽譜、マイクを持ちながら縦横無尽に動き回りとにかく叩きまくる。ピアノの中にボンゴを置いて、ボンゴとピアノを同時にマレットやらドラムスティックやらで叩きまくる。かと思えば、打楽器奏者がピアノの前に座っているピアニストを引きずりおろして自らピアノの鍵盤を叩く。弾く、というより叩く。ピアニストはヤケになったか、打楽器を叩き出す。指揮者は演奏の途中で何かを放棄したかのように、指揮台の隣に置かれたソファに座っておもむろに新聞を読み始める。一応背後にオーケストラがいるのだが、この4人の熱量が凄すぎて、聞いた後に「あれ?どんなことやってたっけ?」と思われても致し方ないのかもしれない。もはや「この音楽に楽譜というものは存在するのだろうか?存在する必要性はあるのだろうか?」とさえ思うほどの音の嵐。

 

その音がふっと消え、指揮者は観客に礼をする。観客の拍手と「ブラボー」の叫び。指揮者は舞台袖へ捌ける。かと思えば突如ピアニストがオーケストラに向かってさらにしっちゃかめっちゃかな演奏を再開。指揮者は走って指揮台に戻り、演奏を「止めさせる」。
再び拍手。

 

「呆気にとられる」とはまさにこのこと。

 

目の前に座っておられた女性が演奏中その熱量にやられたようで、終始クスクス笑い続ける。最初怪訝に思っていたが、打楽器奏者がピアニストを引きずりおろしたあたりから、「あぁ、これは狙ってやってるわけだから、笑うのが正解かもしれない」と思えてきた。プロデューサー佐藤氏自身によるプログラム解説にある、「(作曲者は)作品から逃れられない宿命を演奏家にあずけたあと、自分は一歩引いたところで笑みを浮かべて眺めて楽しんでいたに違いない」という言葉をふと思い出し、笑いも含めたところで作曲家の掌の中にいたんだろうな、とさえ思った。

 

人間、思想、哲学、倫理、宗教、国家、政治、戦争、自然、愛、希望、美、憎しみ、卑しみ、醜さ、絶望、死、生…この世の全ての表現対象を遥かに超えてそのずっと奥底の、最も根深いところに「笑い」を置いたことによって、芸術というものの重さと、それに対して表現家のやっていることの軽さを同時に目に見える形で提示したのではないだろうか。


「だかこそ」なのだが、フェラーリの前にやった武満徹の音楽が必要だったのだ。この武満徹の緻密で圧倒的に高い完成度があったからこそ、前述の主張が極めて立体感を帯びてくる。

 

武満の「群島S.」は、5つのグループに分かれたオーケストラが、それぞれに響き合い、さながら「群島」の自然美を醸し出すわけだが、これがとんでもなく美しい。

 

武満の音楽はシベリウスと少し似通ったような雰囲気を個人的に感じていて、それは何かといえば音の数が少なくなればなるほどに澄み渡った美しさがどんどん増していく。少ない音の集合で透き通った大自然を表現してゆくがゆえに、アラが出れば濁りはよく目立つ。

 

「群島S.」はその名の通り、やや短めなフレーズがふとした無音を飛び越えながら繋がっていく。それぞれのフレーズの一つ一つの仕舞い方が濁りなく丁寧であるほど、その無音は美しく光り輝く。そしてそれは実に美しいものであった。客席に別れた2本のクラリネットの響き合い、途中のトランペットソロ、ファゴットソロ、ホルンソロ。どれも美しい。「武満徹の音楽を体験する」ということに対しては十二分な完成度の高い音楽だった。

 

「単独者の王国」、各作品は全くその国籍も時代も作風も方向性も編成さえもバラバラではあったが、こう一通り見終わってみると、最初から最後に至るまで実に自然な流れの中で「芸術とは」という核心へと知らぬ間に徐々に迫っていく、実に意義深い演奏会であった。

 

凄いものを見た。

 

武満徹「ジェモー(双子座)」

サントリーホール30周年記念

 

タン・ドゥン指揮

三ツ橋敬子指揮
東京フィルハーモニー交響楽団

 

武満徹「ジェモー(双子座)」

タン・ドゥン「オーケストラル・シアターII:Re」

武満徹「ウォーター・ドリーミング」

タン・ドゥン「3つの音符の交響詩

 

何故この曲順になったのか、なんならなぜこの曲順に「変更した」のか、少しよく分からない。

 

3つの音符→ウォーター・ドリーミング→ジェモー→Reのほうが個人的にはしっくりきたような気がする。タン・ドゥンは「東洋人は"Less is More(より少ないことによって、より豊かになる)"の感覚を持つ」と語ったが、ならば3つの音から出発し1つの音へと帰着するほうが、流れとして自然なようにも感じる。ちなみに、「Less is More」はミース・ファン・デル・ローエの言葉、というイメージがあるので「東洋人ならば」と言われると個人的にいささか違和感を覚える。

 

武満:ジェモー。
美しい。武満らしい満ちては引く波の、繰り返される訪れのような音の流れの中に、ふんわりと佇みその宇宙と一体化するような感覚。
特にスティーブン・ブライアントのトロンボーンの豊かで暖かく優しい音の、オーケストラへの乗り方が実に心地良い。良い演奏だった。
それと、CDだとどうしても分かりにくい、2群のオーケストラが互いに絡みみあっていく様子を目の前で見れた事もよい収穫だった。と同時にこの曲の主題は「2」。2つの目、2つの耳、2つに分かれた脳が一人の人間を動かす。それを聞くときに、やはり2つの音群の「境目」が感じられないと、この音楽の核心には踏み込めなさそうだな、とも思った。

 

タン・ドゥン:オーケストラル・シアターII:Re。
「観客と一緒に作る」という発想は現代芸術の一種の流行りだが、なかなかこのようなコンサート会場で見かけることは少ない。観客自身も演奏者となるが、さらにアーティキュレーションまで求められたことによって、実に観客に緊張感が要求される音楽だった。
数年前にサントリーホール内でお茶会に参加したジョン・ケージ「ミュジサーカス」を彷彿とさせるこのような「特別な体験」こそが、サントリーサマーフェスティバルの醍醐味だよな、と再認識。
客席各所に散らばった木管奏者たちが、おどろおどろしく「レ」を響かせば、バスが呪文のように意味の無い言葉を繰り返す。それに引き込まれるように観客もまた同じ言葉を唱える。時に二人の指揮者も静寂を求めるような語りを散りばめる。絶妙な緊張感の中、東フィルの演奏は緻密にコントロールされていた。まさに「怪演」。
ただ、音楽の流れの中に「輪廻転生」(或いはresurrection)の流れを明確に感じるかというと、そうでもないわけだが、しかし儀式的な性格が強いために、何やら信心深さを試されているようでもある。新しい宗教でも誕生したか。

 

武満:ウォーター・ドリーミング。
これは少し額縁の中にコンパクトに収められすぎていたか。伸びやかさがもう少し欲しいところ。特にフルートソロ最初のBbにはどこか幼児的性格を纏っていたように聞こえる。もう少し全体的に神話的性格が求められてもいいのではないかな。

 

タン・ドゥン:3つの音符の交響詩
現代音楽にしてはノリノリな、協和音もいっぱい聴ける(謎)楽しい音楽。サントリーホールのお誕生日に相応しい音楽だった。
祝典音楽的に聞こえたのは作曲者の前振りがあったからかもしれないが、であればやっぱりこれが最初でもよかったんじゃないかなぁ。

ももいろクローバーZ「桃神祭2016〜鬼ヶ島」

「鬼は日常生活の中にも居ます。会社の上司や、学校の先生、お父さんやお母さん。でも、みんな自分を良い方向に導こうとしてくれる存在でもある。」


ももいろクローバーZ(以下、ももクロ)の高城れにちゃんは、夏ライブ「桃神祭2016〜鬼ヶ島」2日目のラストの挨拶でこんなことを言った。「神」と「鬼」の同一視である。

世の中の物事を「善」と「悪」の二項対立に判断するのは思想の欧米化とも言える。元来東洋思想の原理は「陰陽」であって、それは光と闇、昼と夜、夏と冬のようにお互いがお互いを補完しつつ排反しつつ、夫々の中に善も悪も存在している、という二項対立である。

 

近年の社会風潮として善悪二項対立をよく目にする。しかし陰陽を思想の根幹とする東洋人にとっては少なからず違和感を得るべきである。日本の政治について例を出すと角が立つが、例えばISをはじめとするいわゆる過激派によるテロを見るに、彼らは彼らの思想として決して「悪い事をしよう」としてテロを起こしているわけではなく、彼らは彼らの信じる「正義」に基づいてテロを起こしている。その正義が我々の理解している正義とは異なる、というだけのことであり、彼らの正義が我々に悪の存在となる、と同時に我々の正義もまた彼らにとっての悪となるのだ。

 

短絡的に「良い人は常に良い」「悪い人は何が何でも悪い」という発想は理解には易しいが実に幼稚だ。或いは、日本人は倫理思想として、難しいことを考えられなくなってきているのではないだろうか?
 
その言い知れぬ不安感を、ももクロという存在が一度洗い流してくれたのは、個人的に実に新鮮だった。特にれにちゃんは本能的に「和」の心を理解しているように思う。

 

 

 

日本文化の「和様」の内側もまた、二項対立で語られることが多い。古くはアニミズムの呪術的な色彩の強い荒々しい縄文的なる文化と、気品高くしなやかで均整美に富んだ弥生的なる文化との対がある。弥生時代の生活が大陸文化渡来の影響が強いことから、日本美術史家の辻惟雄はこれを「土着の美意識」と「混血の美意識」と語った。

 

私はこの対立を「雅」と「俗」と見る。もっともこれは雅楽と俗楽という音楽的分類を基点とした言い方に他ならないが。平安期以降の宮廷文化、朝廷文化、狩野派を中心とした絵画世界、雅楽や舞楽を「雅び」ととれば、それ以外の庶民文化、あそび、へうげもの、数寄、琳派的なるもの、浄瑠璃長唄、民謡、こういったものは「俗」ともとれる。明治以降に西周らによって「芸術」という概念がもたらされた結果、多くの「俗」文化が「非芸術的なるもの」とみなされたが、それ以前の世界においては「雅」と「俗」は今より成熟した均衡のとれた関係であったと想像できる。

 

もっとも、「雅」が前出の弥生的なるものの後継関係に当たるのかといえば必ずしもそうとは言い切れない。雅楽や舞楽、あるいは「神を祀る」という風習はどちらかといえばアニミズムつまり太古から脈々と続く日本の陰翳礼賛たる自然崇拝史の延長と考えたほうがしっくりくる。

 

そういった潮流を思い描くに、752年に執り行われた東大寺大仏開眼法会では日本で太古から受け継がれる神を崇める舞楽と、インドから中国を経て伝わった大陸文化である仏教声明が同時に奉納されたわけであるから当時の日本文化においては実に画期的な「エポックメイキングな」出来事であったことは想像に難くない。

 

「俗」なる文化は常に庶民文化と隣り合って歴史を刻んできたわけであるから、これが現代琳派から「萌え」文化、サブカルやポップカルチャーと親和していくのもさほどに難はない。少し強引に単純化して言えば「和をモチーフにした」と銘打っているもののほとんどがこちら側である。わっしょいした世界、どんちゃんした世界が日本文化かと言えば、僕個人的には「雅び」が無ければそれは「和」の文化に対して片手落ちではないか、と思っている。断っておくが、色彩感的に派手なものが即ち「雅び」ではない。

 

ところが、ことももクロに関して言えば「俗」文化とポップカルチャーとの融合はさることながら、「雅」文化との融合を試みつつある。うっすらと去年あたりから感じてはいたが、確実に感じたのはライブ中に舞楽奉納を行った太宰府ライブからだ。神聖で高貴なる日本宮廷文化の美学とポップカルチャーとの融合、これはまったくもって前出の東大寺開眼法会に匹敵するほどに衝撃的な、エポックメイキングな事態である。

 

おそらく東大寺のそれが当時の人々から感じ取られたであろう強烈な違和感と同じように、今ももクロがやっていることは現代に生きる我々にとって違和感の強い現象だろう。ひょっとしたらその試みは最終的に上手くいかないかもしれない。ただ、そこが「文化」の新しい扉の開く瞬間だという密かなる確信もまた持てるのだ。

 

そういった、歴史、とりわけ文化史の転換点に今遭遇している、遭遇できていることは、大変に貴重な経験なのではないかと思うのである。そして、元東大准教授の故・安西先生が著書の中で言及されていた、「包括的なももクロ論を最初から破棄せざるを得ないほどの、ももクロが持つ多様な島宇宙」の吸引力こそがそれを実現する原動力なのだろう。

 

黛敏郎 「涅槃交響曲」

ゴーダマ・シッタルダ、あるいはブッダ、はたまた釈迦。
  
仏教の祖である彼が生まれたのは紀元前5世紀頃のインドであるが、それを遙かに2000年ほど遡ること紀元前25世紀頃、インダス川流域には巨大な文明があった。しかしこのインダス文明における宗教観は文字に残っていない事もあって謎に包まれている。紀元前10世紀頃この地にアーリア人が進入し、バラモン僧が儀式を行う「バラモン教」が生まれた。彼らはそれまでその土地に伝わってきた祭詞や聖歌などを集めた巨大な聖典ヴェーダ」(「知の本」)を編纂した。
  
ヴェーダ」はサンスクリット語で書かれているが、ヒンドゥー教徒ヴェーダの事を「意味だけではなく、音の響きそのものも神聖である。それは人が作ったものではなく、神々が作ったものを『聞いた』のである。ヴェーダは「オーム」という聖なる音から生まれ、そしてそれは宇宙ができる前から存在した」と考えた。ヴェーダ信仰は宇宙信仰そのものなのである。
  
ヒンドゥーの思想では「音」には深い意味を持つ。そのもう一つが「マントラ真言)」である。マントラには文字としての意味を持つ必要はなく、大切なのは「音」である。宇宙の創造より前から存在していたとされる「オーム」は一つのマントラであり、その聖なる音を唱える者はその聖なる力を取り入れる、とも言われる。
  
  
その後ブッダが生まれ、仏教が誕生した。仏教がインドから中国へと広まっていく中で、「ヴェーダ」の一つである「サーマ・ヴェーダ」(「歌詠の集成」)もまた中国へともたらされ、「梵唄(ぼんばい、サンスクリット語の歌)」から「声明(しょうみょう)」と漢訳され呼ばれるようになった。漢訳をしたのは「西遊記」でも有名な玄奘三蔵と言われている。
  
日本への仏教公伝は538年だが、「声明」が日本史上に初めて登場するのは奈良の大仏の開眼法会でのことである。時に752年、奈良時代
  
しかし、日本では律令制の整備など国家としての統一に仏教を利用したことによって奈良仏教が強くなりすぎたこともあり、天皇は都を奈良から京都へと移す。平安京である。そこで登場するのが最澄であり、その少し年下の空海である。最澄はそれまで権力者や高僧たちのものであった仏教に疑問を持ち、全ての者が救われる新たな仏教を求め空海と共に遣唐使として中国へ渡り、そして密教に出会った。
  
  
仏教が生まれた当初は、ブッダのように修行を通して悟りを得た者こそが勝利者であるという小乗仏教があった。その後、救いを求める者は誰であれ悟りの道は開かれている、という大乗仏教が生まれた。ブッダとは「悟り(ニルヴァーナ)」そのものがこの世に現れた姿であり、それは「仏」である。仏の説いた教えを「法」、法を学ぶ者を「僧」といい、この「仏法僧」を仏教の3つの宝(三宝)としている。サンスクリット語の「ニルヴァーナ」には「吹き消す」「消滅する」といった意味がある。煩悩の消え去った安らぎの清寂である。
  
ブッダが説いた教えは、それぞれの人に分かりやすい言葉に代えて伝わっているため、「悟り」そのものとは異なる。このブッダの説いた教えの言葉の一つ一つに重きを置く考えが「顕教」である。そうではなく「悟り」(あるいは「真理」)そのものが至上である、しかしそれは大衆には理解できず一部の修行を積んだ者のみが秘密の儀式を通してのみ理解できると考えるのが、秘密仏教、つまり「密教」である。
  
密教大乗仏教の最後の流れとして生まれた。唐へ渡った最澄空海は中国僧の恵果から密教を学び、日本へ持ち帰った。そして最澄天台宗を、空海真言宗を開いた。比叡山高野山など総本山が山深い場所にあるのは密教ならではであり、これがために山岳仏教、山岳密教という言い方をする。空海は「顕教は仮の教えであり、密教こそが真実の教えである」と考えた。
  
天台宗の儀式で行われる声明が「天台声明」、真言宗の儀式で行われる声明が「真言声明」であり、これが整備され2大声明と呼ばれるようになった。
  
「声明」とは、このように五千年に迫る歴史を持つものなのである。
   
   
ブッダは「悟り(ニルヴァーナ)」そのものがこの世に現れた姿である。よってその死に際してはブッダは「ニルヴァーナへ戻る」という意味の「涅槃(ねはん)に入る」という言葉を残した。
  
すなわち、「涅槃」とは「悟り(ニルヴァーナ)」である。
  
  
  
■黛俊郎「涅槃交響曲
  
梵鐘(お寺の鐘)の音を音響解析し、ステージ上と会場座席後方2カ所の合計3群に分かれたのオーケストラが、梵鐘の響きを会場全体に再現する(カンパノロジーエフェクト)。男声合唱は、このカンパノロジーエフェクトと絡みながら、禅宗マントラである「首楞厳神咒(しゅうれんねんじんしゅう)」、広く各宗派で採用されている経文「略三宝」にて“至高の知恵の完成よ”と「法」を請う「摩訶般若婆羅蜜(もこほじゃほろみ)」を唱える。そして最後にはこの上なく美しい天台声明「一心敬礼(いっしんきょうらい)」をオーケストラと共に歌い、一切の苦から解放された「永遠の涅槃に到達」し、この曲は終わりを迎える。
  
この作品は、1958年に初演されているが、初演直後に40カ国から演奏希望の問い合わせがあったとのこと。
作曲者曰く、「どんなにすばらしい音楽も余韻嫋々たる梵鐘の音の前には、全く色褪せた無価値なものとしか響かない」。
  
私は、この作品は日本管弦楽史上の最高傑作ではないかと密かに思っている。(異論は認める。)
  
  
  
【参考文献】
リチャード・ウォーターストーン・著「インドの神々」(創元社
田中健次・著「図解日本音楽史」(東京堂出版)
八木幹夫・訳「日本語で読むお経」(松柏社
2009/4/7 読売日本交響楽団演奏会、黛俊郎「涅槃交響曲」解説より
NHK交響楽団「尾高賞受賞作品集1」CD解説より
  
【画像】
国宝「仏涅槃図」(真言宗高野山金剛峰寺蔵)

f:id:kojikojimajik:20160528173833j:image

夢の劇 ー A Dream Play

@KAAT神奈川芸術劇場
(以下ネタバレを含みますのでご注意のほど。)

どのように理解したらいいのか、実は見終わってなお良く分かっていない。

キリスト教音楽の中には受難曲というものがある。すなわち、キリストが死刑宣告を受けてゴルゴダの丘で十字架に磔にされるまでを描いた音楽劇である。
思想上、キリストが罪を背負い磔になったために信者は許しが与えられるようになった、という考えがあるため、受難曲はキリスト教徒にとっては大切な物語だ。その中身は誰も止められない悲劇への行進だが、全てを見終わるとなんとも言えない解放感に包まれる。

この受難曲に似たような混沌の果ての解放感を感じる。ただ、物語の中で苦しむのは神インドラの娘アグネスだけではなく、登場する全員が全員それぞれに苦しみを抱えていて、見終わった後も明確な答えを得たような気分にはなれない。そこはどこか仏教思想或いは密教に近い考えの流入を見てとれて、極めて客観的に見て面白い。東洋的と西洋的が見事に渾然一体となっている。(だが、空間美術や音楽そのものは、どこでもない世界観ながら東洋的というよりは西洋的に寄っていたようにも思う。)

しかしだからこそ、アグネスが物語の最後に綺麗に纏め上げようとしても、それまでに見てきた苦しみが大きすぎて、全て背負うことはできないままになる。後で振り返ってみれば、それを消化せねばならないのはアグネスではなくて「一般市民たち」に他ならない。断っておくが、女優早見あかりの力量でそう見えたわけではなく、この物語の中では「それしかあり得ない」。

プログラム上の解説とは異なるのだが、その背負いきれない苦しみをなんとか纏めようとして、明確な答えのある綺麗な纏りを紡げないままに死の時を迎える、というアグネスこそが実は一般市民であり詩人でありストリンドベリの化身だったのではないだろうか。人はみな、解決できない問題を背負ったまま、それでも憎むべきものも愛おしいと言って死ぬのではないか。

話を元に戻して、劇のタイトルは「夢の劇」だが、果たして「誰の」夢の劇なのか。

自らの言葉に真実を夢想する詩人の夢なのか、いやこれはインドラ自身が悩める人間の姿を具現化するために見た夢か。あるいは、ストリンドベリ自身が詩人を含めた悩める人間の姿を神へ託して救いを請うために見た夢、ともとれる。

難解な物語だ。それは恐らく私がプログラム解説と異なる印象を得ているのと同様に、見た人ごとに伝わったものが違う可能性があるからか。そういった意味では見る前に期待したカタルシスとは異なるものを見た人も多かろう。

しかしこの劇は語るのだ、「それこそが人生だ」と。