ハンヌ・リントゥ指揮、フィンランド放送交響楽団

・ヴァイオリン協奏曲(Vn:諏訪内晶子
交響曲第2番
・(アンコール)組曲ベルシャザール王の饗宴」より「ノクターン
・(アンコール)組曲「レミンカイネン」より「レミンカイネンの帰郷」

描き方によって、音楽にもたらされる光というものも十人十色である。

シベリウスといえば「透明感のある輝き(光沢)をもった音楽」というイメージがある。アイスランド響の音楽なんか、そっちだろう。今日の演奏を聴いていたら、ラハティ響でさえそちらかもしれない、とさえ思った。

がしかし、今日の音楽は少し違った。光ある音楽であったが、しかしそれは煌めきというよりは穏やかな日差しが森に注ぎ込むような、ふんわりと差し込む光の中に、木とつとした、木質な柔らかい質感を持った音楽であった。決してテカテカしたようなものではない。

熱量はあったが(ハンヌ・リントゥ氏の指揮っぷりからして)、それでも前出の柔らかさの籠った音楽だった。出だしの金管からして「硬い」、そしてその民族色の「強い」音楽になりがちな曲ではあるが、今日見た姿はそうではなかった。いや、むしろこちらこそが「シベリウスの音楽」という立ち位置から言えば本来の姿なのかもしれない。

ヴァイオリン協奏曲
偉大なるシンフォニストの作った協奏曲は、オーケストラもまた素晴らしい。ただ、その偉大さ故に、ソリストにはオーケストラに負けない力量を求められる。この曲が至難の一曲とされる所以は、そんなところにもあるだろう。現に、ソロが細くなってしまってオケに負けてしまっている演奏も、ま、ま、ある。
ところがどうだろう。諏訪内さんの、その存在感の圧倒的なこと。特にこの曲のある種のハイライトでもある冒頭のヴァイオリンソロが奏でる「ソーラーレ」。この3つの音が醸し出す(べき)孤高感、緊張感はもはや異次元たるもので、そこそこの存在感程度では完全に「音に音楽が負ける」。しかして、それを「弾き込むこと」で打開しようとすると、今度はどこか情熱的な音楽になってしまい、これまたシベリウス世界とはかけ離れてゆく。
その点、諏訪内さんは完璧であった。寒々とした中に凛と筋の通った、姿勢の正しさが垣間見れる。かつ、それがオーケストラと絶妙に調和する。その「まさに協奏曲」たる光景は、3楽章の最後の音まで続いたのだ。
諏訪内晶子さんという音楽の、芸術性の真骨頂を垣間見た。

交響曲第2番
「漣(さざなみ)が聞こえる」とは新田ユリ氏が著書でこの曲に添えた言葉だが、そんな冒頭の弦楽器から始まるこの曲も、前出の例に漏れることのなく、木質の温もりのある音楽であった。
ところどころ、「お?こここんな描き方するのか?」といった部分もあったにはあったが、それは意表をつくというほどのこともなかった。ただ、個人的に持っていたこの曲のイメージよりは、少し疾走感が強い演奏だったように思う。
3楽章のスケルツォを抜けた先の4楽章の、あの多幸感はまるでブラームスの1番を想起させるようでもある。しかし、ブラームスのような全幅の煌びやかな喜びではない。大いなる自然の摂理の中に自分の存在を肌で感じることのできるような密やかな悦びである。
ホールに響き渡った最後の音の、空の彼方への仕舞い方も含め、完璧だ。

アンコールのノクターン、これまた凄かった。その音の最後に向かう減衰の仕方、全てが消え去ってからの長めの沈黙もまた、見事であった。

どうしてこのような音が生まれるのだろう?どうしたらこのような音が生まれるのだろうか。
誤解を恐れずに言えば、音楽は作曲者と演奏者の共同作業によって生み出されるものであるが、そのどちらもがフィンランドという地にあって初めて生まれ得る音空間というものが、この世にはあるようだ。



スウェーデン放送合唱団×都響、モツレク

舞台の上で音は生まれ、そして、そこで永遠に失われる。
たとえ録音していたとしても、ホールいっぱいに響いた音は、二度とそこには戻ってこない。


スウェーデン放送合唱団
東京都交響楽団
ペーター・ダイクストラ指揮

リゲティ:ルクス・エテルナ
シェーンベルク:地には平和を
モーツァルト:レクイエム


リゲティからして「人間の声というのはかくも美しく在り得るのか」と感嘆する。ディミヌエンドの、一本の線が描きだす線の美しさ。小さくても奥行きの深い深い音像。まるで、等伯の松林図屏風を見ているかのような。観客の咳でさえ憎く感じるほどの音空間。
そのまま、「これは今年のサントリー芸術財団サマーフェスティバルの続きか?」とでも思ってしまう。
まさか1曲目からこのような事態になるとは、予想外である。

ふんわりとしたクッションのような、古典的な空気を持つシェーンベルク。少しオケが引き気味だったか。

からの、モツレク

「奉献誦から先は、ジュスマイヤーの作だし、前時代的だし、好まない」とか「奉献誦から先は演奏しない」とかいう人もちらほらいるが、それには個人的には否定的。
ラクリモサまでで終えてしまうのは音楽的に少し中途半端な感じもあるし、奉献誦から先もモーツァルトのメモ書きを元に作られているわけで、そしてそこがいかに魅力的な音楽であるか、というのはむしろ指揮者の解釈や表現力が生み出すべき問題である。そこを放棄するということは、自分たちの表現力の無さを単に露呈するだけだ。

その点、今日のモツレクはまさに教科書に載せたくなるくらいの、「モーツァルトかくあるべき」という見本のような演奏であったように思う。

この音楽はベートーヴェンの第九ではない。マーラーの8番でもない。レクイエムであって、ミサ曲なんだ。その根底にあるものは哀悼であり、慈愛であり、信仰なのであり、であるべきである。

バロックティンパニや、ビブラートをかけない古典的な演奏スタイルのオーケストラは、ある意味、意図して強い響きを殺してきているが、それでもコーラスとのバランスはなかなか抜群であった。強いて言えば、テノールソロがめっきりと線が細い。

その「強く響かない」古き良き音は、虚空への消え方も早い。

あぁ、待ってくれ。俺の耳からそんなに早く消えていかないでくれ、音よ。

東京藝術大学美術館「うらめしや〜冥土のみやげ」

芸大美術館の幽霊画展、なかなかのボリューム。

入ってすぐは三遊亭円朝関連作品が並んでたりして「こんなもんか」と思ってたら、、まず歌川広重の「瞽女(ごぜ)の幽霊」で恐怖のどん底に突き落とされる。その後も幽霊画が続き、かの有名な円山応挙の幽霊画で、少し落ち着く。美人画だ。

と思ったら後半に入って歌川国芳の、幽霊というか「物の怪」が出てきたり、牡丹灯籠や番町皿屋敷、四谷怪談などの名作怪談噺をストーリーを追いながら絵画を追ったり。視覚的に情報が入るもんだから恐怖もひとしお。とどめに一龍斎貞水の高座「四谷怪談」の映像作品がたっぷり20分。

恐ろしさに終始するのかと思えば、そこはそこ。最後に「うらみが美に変わるとき」と題して、恐ろしさの中の美しさを追求する。最後の最後に登場する吉川観方、鏑木清方、松岡映丘による3つの絵画に描かれる女性幽霊の姿の美しさたるや。

ヘレン・シャルフベック

ヘレン・シャルフベック。19世紀末〜20世紀に活躍したフィンランドの女性画家。印象派のようでもあり、象徴主義のようでもあり、ラファエル前派のようでもエコール・ド・パリのようでもキュビスムのようでもフォービスムのようでもある。 ストラヴィンスキーばりのカメレオン作家。

とはいえ、19世紀末から20世紀初頭というのは、そのような美術史的側面に限らず世界のありとあらゆるものに変化が起きた時代 である。音楽でいえばドビュッシーからシェーンベルクに至る時代なのである。

感受性の強い人であればそのようなカメレオンになったとしても、無理はない。それを絵画というフィールドで後世に残るような絵を描き続けられたのは才能以外の何物でもないだろう。しかし「ヘレン・シャルフベックってこういう絵を描いた人」という説明は難しい。

悪い言い方をすれば「時代に翻弄された」とも言えるし、それはつまり「激動の時代と戦い続けた」ことの証左でもあろう。そして、やっとの思いで描きたかったものを描けるようになった時には、自らの死期がすぐそこまで迫っていたのである。

彼女にとって84年という人生の月日は短すぎたのかもしれない。

シュトックハウゼン「シュティムング」

大変に美しい。そして、たったの6人のヴォーカリストで奏でられている小ホールでの演奏であったが、それはそんじょそこらのオーケストラ作品を遥かに凌ぐほどの、壮大なスケールの音楽であった。

倍音というのは音波の物理的構造に由来するものであるわけだから、自然界には非常に多い事象であり、そこにフォーカスして表現するということは、自然を表現する作業そのものである。

反面、隅から隅まで儀式的な音楽。例えれば仏教の声明か、または北インド地方の音楽。その自然界性と儀式性からは、どこかアニミズム的な古代宗教的な色彩を帯びる。現代の音楽でありながら、遥か悠久の彼方でさえ彷彿とさせる。

そして古代らしい「陽」の印象もまた、色濃い。神秘的ながらも、どこか開放的な音楽。それは、今まで持っていたシュトックハウゼンという作曲家の音楽に対するイメージとは、また大きく違うものである。

解説もそうだが、とにかく構造が小難しい。人間の発音構造から始まり、曲の進行、奏者に委ねられる部分と、演奏ごとのヴァージョン違い。それはプロ中のプロがまる1ヶ月準備しないと演奏できないほどの、難解な曲であることは理解するが。

開演前の客席においても、さも知ったりといった面持ちで曲の構造やら作曲者の人間性、当時の作曲事情などを語らう人がいたのは、この作曲家ならではか。

しかし、そういった背景事情云々を超えて全体を包み込む美の姿を、こうも巧妙に描けるというのは大作曲家の大作曲家たる所以であり、それこそ唯一無二たる、なのであろう。


シュトックハウゼンという音楽の真価を見たような気がした。

ツィンマーマン「ある若き詩人のためのレクイエム」

サントリー芸術財団サマーフェスティバル2015、2日目。

B.A.ツィンマーマン「ある若き詩人のためのレクイエム」
〜ナレーター、ソプラノおよびバス独唱、3部の合唱、オーケストラ、ジャズ・コンボ、オルガン、電子音響のための、テクスト、様々な詩人、ラジオ通報およびラジオ報道に基づくリンガル(言語作品)

52歳で謎の自殺を遂げた、ドイツの作曲家ツィンマーマンによる「言語作品」。

「「言語的なもの」は、言語と音楽のあいだのいわば第三の地平線にある。一方が他方に支配されるのではなく、双方が徹底的に相互浸透する。合唱と電子音響、ノイズとモンタージュ、政治的事件のコラージュとナレーター、ソロ歌手、ジャズ・コンボ、オーケストラの諸行為が、この地平において出会うのだ。」(作曲者自身の作曲ノートより)

20世紀的なるものへのレクイエムというコンテキストの中で、ことばと音楽の関係性をリアーキテクトする。



ツィンマーマン「ある若き詩人のためのレクイエム」。個人的には、現代音楽の理解難易度の高さここに極めり、といった感あり。8トラック使用し、時に5つも同時に、しかし異なるタイミング、異なる速さで、異なる言語で語られるテクストとその字幕は、最早その内容への理解を前提としない。

マルシェル・デュシャンはレディメイドに芸術的意味論を与えたが、このレクイエムは既存の複数のテキストを一旦分解して、分解されたテクストの言葉をより大きな次元で再統合(Integrate)することで全体としての意味、「美」を追求する。

この再統合は単に分解されたテクストに対してだけではなく、そのピースは時にフリージャズでありビートルズであり、オーケストラであったりする。テクストのピースが意味論から解放された以上、純音楽とも言えるこれらのピースも意味論から解放した上で統合がなされるべきものである。

しかしこれはつまりは我々の前提理解として持っている「言語の持つ目的」「音楽が持つ詩情」を一旦解放させる作業であり、容易なことではない。統合された全体に個々のピースの意味論は常に侵食を繰り返す。それを受け入れれば全体を見失う。

例えればニーチェ哲学を吸収する作業のような、あの一旦様々な観念を解放する時に訪れる頭痛を、どこか彷彿とさせる。

しかも、最後には「Dona nobis pacem」(我等ニ平和ヲ与エ給エ)を全合唱に乗せて曲は締めくくられるのである。最後にテクストに意味が呼び戻されるのである。その言葉の前に流れる民衆のデモの音といい、作曲者は最後には言葉の持つ力を確信していたのではないだろうか。

我々は、音楽と言語の狭間にある第三の地平線を見据えていたのではないのだろうか。作曲者は最後に言語に祈りを託したのか。長く続いた暗闇の果てにようやく辿り着いた光の姿は、果たして我々が欲したものだったのだろうか。謎は深まるばかり。





舞台「転校生」

平田オリザ作の舞台「転校生」を見た(以下、ネタバレを含みますのでご注意ください)。

「なんという、残酷な話なんだ!」


終わった後に出た一番最初の言葉。

同時多発会話は、前週にサントリー芸術財団サマーフェスティバルでツィンマーマンの「ある若き詩人のためのレクイエム」を見た人間としては、さほど抵抗はない。

サントリー〜の影響からか、先週来どうも「声」というやつを意識することが強い。それはToneとしての「声」であり、ConversationなりIntercommunicationなりとしての「声」である。声は意味と音の両方を兼ね備えている大変に複雑な人間の機能であり、Toneとしての声が無限の連続的な階調を持つからこそ、そこに意味を超えた無限の表現可能性を持つのである。


舞台「転校生」。

単純にストーリーをぱっと眺めていれば、ただ女子高生が集まって他愛のない話、文化祭だとか、部活だとか、進路だとか、恋愛だとか結婚だとか出産だとか、ただ漠然と話して終わるだけのようにさえ見える。

ただ、文化祭で出す「世界の高校生」を題材とした調査結果だとか、フナの解剖だとか、読んだ本としてのカフカの「変身」だとかが、背景にじわりと印象に残る。

しかし、どうしてもその女子高生同士の会話に「奇妙なまとまり」と「一種の空々しさ」がまとわりつくのだ。「本当の高校生は、もっと友情と恋愛のバランスや、いじめや、ネットとの付き合いとか、いろんなものに苦悩しているはずじゃないか?どうしてこんなにも空々しくみんな仲良しを描くのだろう?」と。

3場あたりから、その素朴な疑問は徐々に確信へと変わっていく。演技そのものにも、どこか稚拙さが浮いては沈みを繰り返しているのだ。本当に浮き沈みする。ぐっと真実味を増すところと、空々しさが、同時多発会話の中に見え隠れしていくのだ。

そこで思うのだ、「この子たちは『女子高生を演じている女子高生』を演じているのだ」と。

最終場、「今日はなんかみんないつもと違っていた」という台詞に、まさに全ての仕掛けがうまく噛み合ったような、不思議な感触を得るのである。


それでは、その空々しい演技をする女子高生たちを生み出したものは一体何だったのかというと、それは紛れもなく「転校生」の存在であったのである。転校生がやってきたことが、その空気感を生み出したのである。

まるで、カフカの「変身」で、ある朝気がかりな夢から覚めたら巨大な毒虫になってしまったグレゴール・ザムザ、彼の姿をみた家族のように。

カフカの「変身」…そういえば、その転校生も転校してきた理由を「今日、朝起きたら突然この学校の生徒になっていた」と述べた。グレゴールと一緒じゃないか。

であれば、結末はどうなる?舞台上では「変身」の最後も述べられている。グレゴールは最後に死んでしまう、と。


「転校生」の舞台は、転校生と元からいる生徒との間でしっかり手を握り、「ずっと一緒だ」というような未来への不安以上の期待と希望を胸に、幕は閉じる。

だがしかし、転校生自身がグレゴールの具現だとすれば、その将来は暗いものだ。グレゴールは最後に死ぬのだから。

この先で起きる、まだ見ぬ恐ろしい悲劇を予感しながら、希望の光を灯すのである。
そこに、このお話の身も張り裂けそうなほどに残酷な姿を、見るのである。

なんという、残酷な話なんだ。


残酷だが、美しい舞台だった。