雑記 - 有安杏果のこと。

我々の思想には、具体と抽象の間に無数の段階を持っている。
ある具体の層で問題が発生すれば、そこから本質と類推されるものを抽出し雑多な周辺事象を排除した一段階上の抽象の層へ上がり、そして問題を考え対応を考え、そしてまた具体の層へと降りてゆく。問題が大きければ大きいほど、上り詰める抽象の層は、よりその抽象度を増していく。

 

ももいろクローバーZ有安杏果が、引退した。
実のところ、この事件はここ数年で一番衝撃的だったし、今もってそれをうまく飲み込めているのかどうかと問われれば少し言葉に詰まる。

 

ちょうど、昨年仕事でベルギーへ行った時に「さて、芸術とは何だろう?」という問いがふと沸く瞬間に遭遇し、そこで何か思考の変遷をまとめようと思いもしたのだが、頓挫し、そうこうしている間にこの事件が起きたことで、やはりこの問いを見つめてみようというきっかけになった。タイトルに杏果ちゃんの名前を付けたのは、これを書くきっかけとなったかな、という思いも含まれている。ただ、ももクロの話はそれほど多くないので、その話を期待する方には面白くない文章だろうと思う、ということをはじめに述べておく。

 

先日、仕事でベルギーのブリュッセルへ行った。

ブリュッセルといえばEUヨーロッパ連合の本部がある街だが、かといってそんな巨大な街というわけでもない。交通の要所だったからか観光客も含めて人通りは多いが、とても路上も綺麗だし街並みも美しく、昨今の欧州の政治事情からかどこかぴりりとしている雰囲気さえ漂う。そんなブリュッセルの市街を見下ろす「芸術の丘」と呼ばれる小高い丘の上に立つのが、ベルギー王立美術館だ。この美術館がまた地上2階から地下7階まで伸びるヨーロッパを代表する巨大美術館の一つであり、「ブリュッセルに来る機会もそうそう無いわけだし、ここはちょっと寄らないとまずいだろう」と思って、休日に訪れてみたわけだ。

 

たしかに、パリのルーヴル美術館のような、まるで人類の歴史がすべてそこにあるような、「世界最大」と呼ばれることもある美術館に比べてしまえば、展示されている世界観は多少コンパクトなイメージはある。しかし、そこにはルネサンス時代の絵画、食器、キリスト教聖具などから、ルネ・マグリットに代表される現代美術にいたる様々なものがあって非常に面白い。取り立てて、ベルギー美術史はもとより西洋美術史にその名を大きく刻み込まれるベルギー・バロックの代表的な画家、「フランドル派の伝統の到達点でありその最も偉大な代表者」とも言われるルーベンスの絵画には、その美とスケールの大きさから畏怖の念に包まれ身震いさえした。

 

その絵画の単純な大きさや描かれる情景の勢い、劇的な表現、陰影の演出、人々の表情、写実性といったものの、それも見事なのだが、それらを遙か彼方上方からすべてを包み込むように降臨してくる、見る者又そこにいる何者をもを無にさえ還す、眩い光の世界にこそその凄さの核があるように感じる。ちょうど、「フランダースの犬」の物語のラストで、ネロがアントワープ大聖堂にあるルーベンスの絵画を見て息絶える瞬間のような。

 

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(ピーテル・パウルルーベンス/「Assumption of virgin(聖母被昇天)」)

Assumption of Virgin, 1616 - Peter Paul Rubens - WikiArt.org

 

神はその絵の中にいる。


直感へ訴えかけられてくる。そういえばルーベンスだけでなく、一時代古くなるラファエロの絵画や、さらに後の時代になるドラクロワの作品であったとしても、それをじっと見ている時間軸の中に「神の存在に対する圧倒的な確信」が芽生える瞬間がある。その瞬間というものは、実のところ音楽を聴いていた瞬間に感じるものとは強さの面で全くに異なる。それがバッハのマタイ受難曲であったとしても、あるいはモーツァルトのレクイエム、あるいはオリヴィエ・メシアン、あるいはクシシュトフ・ペンデレツキであったとしても。

 

なぜこのような違いを感じるのだろうか。我々は聴覚から入る情報よりも視覚から入る情報量を圧倒的に「多く」感じる生物であるから、結局的に絵画によって感じる霊感は自ずと強くなってしまう、そうであれば「絵画美術は音楽より優れている」のだろうか?もしそうであるならば、では、そもそも芸術とは何か。

 

この問いについて、一つの解を次の言葉から模索する。


「あらゆる芸術は音楽の状態を憧れる」


19世紀英国ヴィクトリア朝時代の著名な文筆家、批評家であるウォルター・ペイターが著書「ルネサンス」の中に記した言葉である。少し、この著書からの言葉を抜き出してみようと思う。曰く、

「各芸術の感覚的内容は、他の芸術の形には翻訳不可能な特殊な美の相あるいは性質をもたらし、劃然(かくぜん)と種類の異なる印象を作り出す、という原理を明確に把握することこそ、すべての本当の美的批評の第一歩となるのである。(中略)おのおのの芸術は、独特の翻訳不可能な感覚的魅力をもち、想像にはたらきかけるのにもそれぞれ特殊な方式をもち、題材に対してもそれぞれ特殊な責務を持っていることになる。批評の一つの機能は、これらの限界を規定することである。(中略)音楽においては、音楽的魅力、すなわち音楽をわれわれに伝える特定の形式とは無縁な言葉を少しも前面に押し出すことのない、音楽の本質に注目することである。」
(ウォルター・ペイター「ルネサンス」別宮貞徳訳、中央公論新社より)


「他の芸術の形には翻訳不可能」とは詰まるところ、それが例え文学的であろうとも言語表現では代替ができないことを含意してくる。20世紀を代表する作曲家であるイーゴリ・ストラヴィンスキーの言葉「音楽は音楽以外の何ものも表現しない」は、こういう文脈をも想起させる。すなわち言葉で表現している内側に音楽の真の美しさは決して表れてこないのである、と言ってしまった瞬間にいろいろな事を放棄してしまうようにさえ思えてくる。ただ、芸術とは何だろう、と考えてみる試行の中でこの示唆はきわめて重要だろう。表現者でも分析者でも批評家でもない人間が書くモノに、少しは「重み」を持たせるためには、この示唆を喉に詰め込んだ上で次の言葉を発する必要もあるのではないかと思う。


話の筋からはズレるが、このペイターの言葉の意味する芸術には科学技術の内に秘められる美が含まれているように思う。近年はフラクタルのように数理論理を視覚的に表現して美とする指向がなくはないが、しかし数理科学の本質的な美はやはり数式や論理そのものの中にあるのであり、その美しさを言葉で表現することは実に難しいなと思っていた事をふと、この言葉から思い出した。

 

閑話休題。続いて、再びペイター曰く、

「何となれば、(音楽以外の)すべての芸術にあっては、内容[題材]と形式を区別することが可能で、悟性はいつでもこの区別をなしうるのであるが、それを消そうとするところに、芸術は不断の努力を注いでいる。(中略)この芸術の理想、この内容と形式の完全な一致が申し分なく実現されているのは、音楽芸術である。至上の瞬間においては音楽では目的と手段、形式と内容、主題と表現の区別がつかない。それらは互いにかかわりあい、完全に飽和しあっている。それゆえに、すべての芸術は音楽-その完全な瞬間の状態を絶えず志向するものと想像される。」
(同)

 

ゴジラ」の音楽で有名な伊福部昭は著書の中で同じことを次のように例示してみせている。

「もしフランスの作曲家が、日本の在来ある旋律を主題、すなわち素材としたとしましょう。この場合、この作品の国籍を聴き分けることはかなり困難となるのです。これは採用された主題が、素材なのか表現の一部なのかということが、音楽にあっては極めて錯雑しているからなのです。」
伊福部昭「音楽入門」、角川文庫より)


「何が表現されているか」と「どのように表現されているか」との間に剥離不可能性が高ければ高いほど、人間は悟性ではなくより感性に近い部分でそれを感受する。悟性の動き、知性による対象に対する理解の動きが「機能しない領域」での心への突き刺さりこそが、芸術の芸術たる要素、美の美たる要素なのではないか。それを完全に実現しているものこそが、音楽なのである、と、そう見えてくる。つまり、「神の存在に対する圧倒的確信」はどちらかというと悟性の働きによるものであり、それに対して、芸術の芸術たるべき相とはそれを超えたところにあるのである、という答えらしきものが見えてくるのである。


悟性の機能しない、より感性的な知覚領域へ近づいてモノを感じる方法として、ごく最近個人的に流行っていることがある。それは「匂い」に置き換えることである。

 

「犬と小供が去ったあと、広い若葉の園は再び故の静かさに帰った。そうして我々は沈黙に鎖ざされた人のようにしばらく動かずにいた。うるわしい空の色がその時次第に光を失って来た。眼の前にある樹は大概楓であったが、その枝に滴るように吹いた軽い緑の若葉が、段々暗くなって行くように思われた。遠い往来を荷車を引いて行く響きがごろごろと聞こえた。私はそれを村の男が植木か何かを載せて縁日へでも出掛けるものと想像した。」
夏目漱石「こころ」より)


想像の内側にその風景に流れる「匂い」が入り込んでくる。同じように、絵画を見たり、音楽を聴いたりした時に、耳や目に入り込む瞬間と、何がどのように表現されているかの理解との間で「どのような匂いがそこに流れているか」を感じ取ること、これによってその世界へ自分を浸透させることができる。文学、絵画はもとより、彫刻陶芸、音楽、果ては美術刀剣においてもこれは通ずると確信する。

 

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本阿弥光悦・作/白楽茶碗・銘「不二山」(国宝))

本阿弥光悦「白楽茶碗 銘不二山」 | 骨董品LAB|骨董品、美術品、アンティーク等

陶芸品であってもその景色に流れる空気の香りを感じ取ることができる。

 

音楽ではたまに、曲の持つ匂いと演奏が持つ匂いが乖離することがある。シベリウス作品のようにフィンランドの気候をたっぷりと含んだ楽曲を、南アジア地域のようなモンスーン気候の匂いを前面に押し出して演奏されるのは、強い違和感を感じる、といったことさえある。そこにはいわゆるピッチなどといった表面的な技術上の上手い下手は関係しない。

 

時には、非人間的なほどに極端に精緻に風景が描かれていることで、その匂いがはっきりと想像できる、といったことがある。絵画であれば一つは写実性であり光と影への演出であり遠近であり、音楽であればピッチであり縦の線であり、またごくごく細かいアーティキュレーションであったりする。ただ、それは精緻であれば良いというものでもなく、例えば大きなエネルギーによる衝撃や、あるいは極端に強い、弱い人間精神の表現などにおいては、むしろ不精緻さこそがその内容を忠実に物語る上での重要な表現要素となり得る場合がある。無論緻密性の持つ価値そのものを否定するつもりもないが、だがしかし実のところ、作品の表現上の技巧的精密さといわゆる「芸術性」に直接的な関係はない。

 

1976年、当時89歳のピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインが指揮者ズービン・メータ、イスラエルフィルハーモニー管弦楽団と共に録音したブラームスのピアノ協奏曲第1番がある。20世紀の巨匠の最後の録音である。「精巧か?」と問われれば、「いやもっと精巧な演奏はあるだろう」と答えるが、「圧倒的か?」と問われれば、「これほど圧倒的な演奏はまずないだろう」と答えよう。

 

人間がその悟性の及ばない領域で芸術作品に感動をするには、むしろ精緻さとは違う軸での「芸術性」の評価が必要である。その一つの軸が僕個人では「匂い」なのである。

 

そういった文脈において、有安杏果の音楽は「美しい匂い」を感じる音楽だった。


芸術の、本当に魅力的な所の一つは、「人間的でなくなる瞬間」の存在であると思っている。何年も時間をかけて、無数の視覚作品、音楽を見て聞いていくと、時にその「芸術性」という指標の中に、表現者や鑑賞者の中の瞬間的な内的問題や表現の場における周囲環境などの外的問題において偶発的な要素も相まってさらに一段昇華されてくる作品の存在に気づく。非常に稀なことだが、こういった作品との対峙においては、「これは人間がその手で作っただけでは得られない世界なのではないか、神がそこに降臨したのではないか」と思えてくる。その時に芸術作品の中に人間的でなくなる瞬間が見えるのだ。これが見えるからこそ美は恐ろしい。

 

ただ、我々はよく知っているのだ、良い人間が良い作品を作るわけでもなければ、悪い人間が醜悪な作品を作るわけでもないということを。ゴッホの作品を見てそれに感動するが、後でゴッホが自身の耳を自分でそぎ落とした事件を知ると、なんと作者のことを知らなかったのだろうと、唖然とする。同じような事は多々言える。その最たるはワーグナーではなかろうか。「彼の作品の評価をするには、彼の著書の事はすべて忘れなければならない」とはよく言われたものだ。その悪名高き著書を差し引いても、ワーグナーの音楽の美しさはその光を失わない。

 

もし鑑賞者が作者のことをよく知っている、あるいは知らないといけない、と考えるのであれば、それは誤りである。芸術の核心はそこには存在しない。

 

美は、ただ美として存在しているのであり、それは人間としての作者と切り離しても、永遠に存在し続けることができる。


冒頭記述の通り、ももクロ有安杏果が卒業した衝撃でこのブログを書き始めたが、結論としてはここにある。卒業を知った時に、なんと彼女のことを知らなかったのだろう、と思い知らされたわけだし、だからこそ今この瞬間から先未来に向けての有安杏果という存在に対する何らの期待をも、実のところまた空虚きわまりなく(彼女のことを知らないのだから!)、また、そのことと彼女の生み出した作品の美しさは切り離すことができ、そして、その切り離された作品の美しさは永久に残り、末永く感受することができるのである。

 

今改めて思うが、僕がももクロの存在に惹かれたのは、こういったファインアート的な検討に耐えうる存在であったからなんだろうな、と思う。