茶碗の中の宇宙

茶碗の中の宇宙

茶碗の中の宇宙〜楽家一子相伝の芸術
東京国立近代美術館


あぁ、陰翳礼讃の文化は今ここで終わったのだな。

と、なんだかそう感じた。

いや、そもそも谷崎潤一郎は随筆「陰翳礼讃」の中で、電気というものの普及によって消えゆく美の姿を惜しみ、しかしその贖えない世相の流れを汲み「愚痴でしかない」と何度か述べているわけで、それは諦念の中にひっそりとしのばせる類の物なのかもしれないが。

といって、その谷崎潤一郎は「陶器ではだめだ、漆器でなくては和食の良さは生み出されない」とまで述べているから、陶器としての茶碗の世界から見れば宿敵という扱いをされても致し方ない。
まったく、魯山人はこれをなんと思ったのだろうか。


楽茶碗の世界。

展示は初代長次郎から二代常慶、三代道入(ノンコウ)、と一人ずつその作品を現代の姿に至るまで見ていく旅だ。少し進む度に長次郎に戻ってみると、長次郎の何が凄いかが立体的に浮かび上がってくる。

長次郎碗の展示も他の時代に比べると暗く、というか時代を追うごとにどんどんと明るくなっていき、最後はどうにもギラギラとしてくるのだが、「はじめの時代」の照明は実によく陰翳の世界を生み出してくれている。侘び茶ここにあり、とでも言いたげである。

仄かな明るさが、ある方向からひっそりと当たり、深い影の世界を作り出している。長次郎碗のその小さいながらも朴訥とした佇まい、内省的世界から生み出される「影」の世界は、それはそれですさまじい精神的な鋭さを兼ね備えており、まさに日本が誇るキアロスクーロなる世界の頂点が、そこに居るのだ。影が、とんでもなく美しい。

 

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初代 長次郎《黒樂茶碗 銘 大黒》
文化庁広報誌「ぶんかる」より

http://www.bunka.go.jp/prmagazine/rensai/diary/diary_032.html


俗に、茶碗は「一井戸ニ楽三唐津」と言われているが、私個人としは楽茶碗のそれも黒楽茶碗の持つ、何者をも飲み込む黒、墨黒でも鋼黒でもない、世界の深淵と世界の始まりを持つ「引き出し黒」と言われる土の黒の世界がどうにも好きで。本阿弥光悦がそれに取り付かれ、そして尾形乾山へと繋がっていく日本の陶器史における重要なマイルストーンとなり得たことも、その楽茶碗の語らう無言の深さを思想すればこそ、まったくもって至極当然であり、感嘆とする。今回、長次郎碗を改めてまじまじと見て、あぁ、これが好きなんだな、と再認識したわけだ。

勿論、ノンコウ碗も実に渋くて良い。ただ、最早ノンコウ碗でも長次郎碗と違った方向性の「強さ」を感じる。その世界は哲学的というよりは美的好奇感覚のほうが強いようにさえ思う。長次郎碗の深淵さに比べてしまえば、刷毛目が一本入っただけで、それが持つ陰翳の世界はガラリとその姿を変えてくる。景色が鮮やかになるほどに、目はそちらの風景の持つ詩的世界への理解へと動き、自己への顧みを促す内省的な深淵さは遠去かってゆく。例えれば、ノンコウ碗「鵺(ぬえ)」でさえも、その詩情が語りかけてくるわけであり、どこまでも清寂な長次郎の碗とはどこか異質な世界が繰り広げられている。

 

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三代 道入/のんこう《赤楽茶碗 銘 鵺》
文化遺産オンラインより

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/278173


八代得入の碗くらいまではそれでもノンコウ碗のような内省的な思考の表現があったわけだが、しかし近代碗、現代碗はどうにも個人的にしっくりとこない。明るい。「ギラギラする」。十一代慶入、十二代弘入の碗あたりから20世紀の作陶は自らの主張をどんどんと強くしてゆく。金属成分だろうか、ところどころに金銀のたらし込みによる光の輝きを持つ。それはそれで、工業的な世界の良し悪し、あるいは自然観の何かしらを表現しているのだろうが、しかし私にはどうにも眩しすぎる。

 

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十一代 慶入《赤楽茶碗 碌々斎書付》
樂美術館ホームページより

http://www.raku-yaki.or.jp/museum/collection/collection_12.html

 
この光沢感が、天目か、織部碗であったならば、まだ受け入れられたかもしれない。

私は時々思うのだ、現代美術は「ものを多く語りすぎる」。たとえたった一色でキャンバスを塗っただけの絵画作品だとしても、作品は語りかけてくる。「この一色の絵はこういう情景を描いたものであり、それは人間の心理がこうであって、しかしその心理を生み出した社会背景はこうであり」云々。他方で、古き良きものが語りかけてくるものは非常に少ない。例えばコローの絵画のように静けさが支配する世界だからこそ、最も繊細なもの、小さきものの発する音、声は見る者の心へと語りかけてくる。

現代美術の多くは、社会的なもの、世界的なものについて語ることはあっても、個人的な問題に語りかけてくるものは少なくなった。

楽焼は一子相伝ながらも、作り方を厳密に守るわけではなく、その時代に合わせた作風へと「進化」することにその流派としての本質がある、という。ならば、その進化の結果がそこまでと煌々とした騒然とした世界であるというのは、現代世界自体が持つ特筆すべき性格なのかもしれない。

吉左衛門氏が芸術新潮の記事に語っていたように、もはや現代の茶において軽々しく茶を禅の世界の言葉で解説しようなどというのは、良策ではない。しかし現代世界の表層の端的な概観がそのようにビジーな世界であるならば、もはや陰翳礼讃は死に絶えたと考えるのが妥当であろう。特に「日本の芸術世界」に於いてそれが為されたことは大きい。

しかし、谷崎潤一郎は100年も前にこの衝撃を体現したのだろうか。