武満徹「ジェモー(双子座)」
サントリーホール30周年記念
タン・ドゥン指揮
三ツ橋敬子指揮
東京フィルハーモニー交響楽団
武満徹「ジェモー(双子座)」
タン・ドゥン「オーケストラル・シアターII:Re」
武満徹「ウォーター・ドリーミング」
タン・ドゥン「3つの音符の交響詩」
何故この曲順になったのか、なんならなぜこの曲順に「変更した」のか、少しよく分からない。
3つの音符→ウォーター・ドリーミング→ジェモー→Reのほうが個人的にはしっくりきたような気がする。タン・ドゥンは「東洋人は"Less is More(より少ないことによって、より豊かになる)"の感覚を持つ」と語ったが、ならば3つの音から出発し1つの音へと帰着するほうが、流れとして自然なようにも感じる。ちなみに、「Less is More」はミース・ファン・デル・ローエの言葉、というイメージがあるので「東洋人ならば」と言われると個人的にいささか違和感を覚える。
武満:ジェモー。
美しい。武満らしい満ちては引く波の、繰り返される訪れのような音の流れの中に、ふんわりと佇みその宇宙と一体化するような感覚。
特にスティーブン・ブライアントのトロンボーンの豊かで暖かく優しい音の、オーケストラへの乗り方が実に心地良い。良い演奏だった。
それと、CDだとどうしても分かりにくい、2群のオーケストラが互いに絡みみあっていく様子を目の前で見れた事もよい収穫だった。と同時にこの曲の主題は「2」。2つの目、2つの耳、2つに分かれた脳が一人の人間を動かす。それを聞くときに、やはり2つの音群の「境目」が感じられないと、この音楽の核心には踏み込めなさそうだな、とも思った。
タン・ドゥン:オーケストラル・シアターII:Re。
「観客と一緒に作る」という発想は現代芸術の一種の流行りだが、なかなかこのようなコンサート会場で見かけることは少ない。観客自身も演奏者となるが、さらにアーティキュレーションまで求められたことによって、実に観客に緊張感が要求される音楽だった。
数年前にサントリーホール内でお茶会に参加したジョン・ケージ「ミュジサーカス」を彷彿とさせるこのような「特別な体験」こそが、サントリーサマーフェスティバルの醍醐味だよな、と再認識。
客席各所に散らばった木管奏者たちが、おどろおどろしく「レ」を響かせば、バスが呪文のように意味の無い言葉を繰り返す。それに引き込まれるように観客もまた同じ言葉を唱える。時に二人の指揮者も静寂を求めるような語りを散りばめる。絶妙な緊張感の中、東フィルの演奏は緻密にコントロールされていた。まさに「怪演」。
ただ、音楽の流れの中に「輪廻転生」(或いはresurrection)の流れを明確に感じるかというと、そうでもないわけだが、しかし儀式的な性格が強いために、何やら信心深さを試されているようでもある。新しい宗教でも誕生したか。
武満:ウォーター・ドリーミング。
これは少し額縁の中にコンパクトに収められすぎていたか。伸びやかさがもう少し欲しいところ。特にフルートソロ最初のBbにはどこか幼児的性格を纏っていたように聞こえる。もう少し全体的に神話的性格が求められてもいいのではないかな。
タン・ドゥン:3つの音符の交響詩。
現代音楽にしてはノリノリな、協和音もいっぱい聴ける(謎)楽しい音楽。サントリーホールのお誕生日に相応しい音楽だった。
祝典音楽的に聞こえたのは作曲者の前振りがあったからかもしれないが、であればやっぱりこれが最初でもよかったんじゃないかなぁ。
ももいろクローバーZ「桃神祭2016〜鬼ヶ島」
「鬼は日常生活の中にも居ます。会社の上司や、学校の先生、お父さんやお母さん。でも、みんな自分を良い方向に導こうとしてくれる存在でもある。」
ももいろクローバーZ(以下、ももクロ)の高城れにちゃんは、夏ライブ「桃神祭2016〜鬼ヶ島」2日目のラストの挨拶でこんなことを言った。「神」と「鬼」の同一視である。
世の中の物事を「善」と「悪」の二項対立に判断するのは思想の欧米化とも言える。元来東洋思想の原理は「陰陽」であって、それは光と闇、昼と夜、夏と冬のようにお互いがお互いを補完しつつ排反しつつ、夫々の中に善も悪も存在している、という二項対立である。
近年の社会風潮として善悪二項対立をよく目にする。しかし陰陽を思想の根幹とする東洋人にとっては少なからず違和感を得るべきである。日本の政治について例を出すと角が立つが、例えばISをはじめとするいわゆる過激派によるテロを見るに、彼らは彼らの思想として決して「悪い事をしよう」としてテロを起こしているわけではなく、彼らは彼らの信じる「正義」に基づいてテロを起こしている。その正義が我々の理解している正義とは異なる、というだけのことであり、彼らの正義が我々に悪の存在となる、と同時に我々の正義もまた彼らにとっての悪となるのだ。
短絡的に「良い人は常に良い」「悪い人は何が何でも悪い」という発想は理解には易しいが実に幼稚だ。或いは、日本人は倫理思想として、難しいことを考えられなくなってきているのではないだろうか?
その言い知れぬ不安感を、ももクロという存在が一度洗い流してくれたのは、個人的に実に新鮮だった。特にれにちゃんは本能的に「和」の心を理解しているように思う。
日本文化の「和様」の内側もまた、二項対立で語られることが多い。古くはアニミズムの呪術的な色彩の強い荒々しい縄文的なる文化と、気品高くしなやかで均整美に富んだ弥生的なる文化との対がある。弥生時代の生活が大陸文化渡来の影響が強いことから、日本美術史家の辻惟雄はこれを「土着の美意識」と「混血の美意識」と語った。
私はこの対立を「雅」と「俗」と見る。もっともこれは雅楽と俗楽という音楽的分類を基点とした言い方に他ならないが。平安期以降の宮廷文化、朝廷文化、狩野派を中心とした絵画世界、雅楽や舞楽を「雅び」ととれば、それ以外の庶民文化、あそび、へうげもの、数寄、琳派的なるもの、浄瑠璃や長唄、民謡、こういったものは「俗」ともとれる。明治以降に西周らによって「芸術」という概念がもたらされた結果、多くの「俗」文化が「非芸術的なるもの」とみなされたが、それ以前の世界においては「雅」と「俗」は今より成熟した均衡のとれた関係であったと想像できる。
もっとも、「雅」が前出の弥生的なるものの後継関係に当たるのかといえば必ずしもそうとは言い切れない。雅楽や舞楽、あるいは「神を祀る」という風習はどちらかといえばアニミズムつまり太古から脈々と続く日本の陰翳礼賛たる自然崇拝史の延長と考えたほうがしっくりくる。
そういった潮流を思い描くに、752年に執り行われた東大寺大仏開眼法会では日本で太古から受け継がれる神を崇める舞楽と、インドから中国を経て伝わった大陸文化である仏教声明が同時に奉納されたわけであるから当時の日本文化においては実に画期的な「エポックメイキングな」出来事であったことは想像に難くない。
「俗」なる文化は常に庶民文化と隣り合って歴史を刻んできたわけであるから、これが現代琳派から「萌え」文化、サブカルやポップカルチャーと親和していくのもさほどに難はない。少し強引に単純化して言えば「和をモチーフにした」と銘打っているもののほとんどがこちら側である。わっしょいした世界、どんちゃんした世界が日本文化かと言えば、僕個人的には「雅び」が無ければそれは「和」の文化に対して片手落ちではないか、と思っている。断っておくが、色彩感的に派手なものが即ち「雅び」ではない。
ところが、ことももクロに関して言えば「俗」文化とポップカルチャーとの融合はさることながら、「雅」文化との融合を試みつつある。うっすらと去年あたりから感じてはいたが、確実に感じたのはライブ中に舞楽奉納を行った太宰府ライブからだ。神聖で高貴なる日本宮廷文化の美学とポップカルチャーとの融合、これはまったくもって前出の東大寺開眼法会に匹敵するほどに衝撃的な、エポックメイキングな事態である。
おそらく東大寺のそれが当時の人々から感じ取られたであろう強烈な違和感と同じように、今ももクロがやっていることは現代に生きる我々にとって違和感の強い現象だろう。ひょっとしたらその試みは最終的に上手くいかないかもしれない。ただ、そこが「文化」の新しい扉の開く瞬間だという密かなる確信もまた持てるのだ。
そういった、歴史、とりわけ文化史の転換点に今遭遇している、遭遇できていることは、大変に貴重な経験なのではないかと思うのである。そして、元東大准教授の故・安西先生が著書の中で言及されていた、「包括的なももクロ論を最初から破棄せざるを得ないほどの、ももクロが持つ多様な島宇宙」の吸引力こそがそれを実現する原動力なのだろう。