有安杏果、サクライブ

グスタフ・マーラー交響曲第3番。

曲は2つの部、6つの楽章から成り、それぞれの楽章には表題が次のようについている。

 

第一楽章 パン神(牧神)は目覚める、夏が行進してくる
第二楽章 野の花たちが私に語ること
第三楽章 森の動物たちが私に語ること
第四楽章 夜が私に語ること
第五楽章 天使たちが私に語ること
第六楽章 愛が私に語ること

 

自然的なもの、超自然的なものをそれぞれに巡り、間にニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」の一節を引用することで大いなる正午の訪れ、永遠回帰を予感させ、この世の全てを包含して最後に「愛」にたどり着く。その愛に無限の深淵を感じる。

 

アンドレス・オロスコ=エストラーダ指揮、フランクフルト放送交響楽団の演奏がYouTubeに上がっている。

www.youtube.com素晴らしい。ずっしりと重く大迫力に始まりながらも実に正確にこの曲の持つ「永遠」を生み出していく。終楽章の「愛」のたっぷりとした深さはまた見事であり、最後の音が虚空に消えてゆくその様は涙が出るほどに美しい。

 

このフランクフルト響の演奏は第一楽章が終わると拍手が湧き起こる。


1990年にまだ崩壊前のソヴィエト連邦、モスクワを訪れたイツァーク・パールマン、ズービン・メータ、イスラエルフィルハーモニー管弦楽団のライブ録音がある。その名も「パールマン、ライブ・イン・ロシア」。
披露されたのはパールマンの十八番であるチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。このライブでも、その演奏は熱狂的な支持を受け、各楽章が終わるごとに大きな拍手が巻き起こる。

 

私は人生で初めて買ったCDがチョン・キョンファシャルル・デュトワ指揮、モントリオール交響楽団チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲なので、馴染みのある曲であったが、当時父が買ってきたこのCDを聞いてなるほどこんな熱狂的な受け入れられ方もあるのか、とある種驚いた。

 

 

他にもたびたび楽章が終わるごとに拍手が起きるという演奏に出くわしているわけだが、その度に「音楽を楽しむということはこういうことなのではないか」という思いに駆られる。


「1楽章が終わっても拍手しちゃいけません」っていう暗黙の理はクラシック音楽界隈ではある種「常識化」している。ただ、その理由を「ルールだから」「マナーだから」以外に正確に説明できる人はそう多くはないのではないだろうか。冒頭に記載したマーラー交響曲のように、全楽章を通すことで初めてその音楽の全体像、その音楽の「言いたかったこと」が理解できるわけで、その全体像に対しての好不評によって拍手を選ぶべき、という事が「楽章間に拍手をしない」という事への元来の意味ではあるが。

 

しかし、その「ルールだから」「マナーだから」という話によって無碍に拍手を抑え込んでしまうのは、本来的な音楽の楽しみ方として不健康であるとも言える。どんなコンテキストを持ってきたとしても、「今聞いた音楽が素晴らしいから拍手するのだ」という方が圧倒的に自然である。だいたいからして、オペラやミュージカルでは素晴らしいアリアが終わると例え劇の途中であっても熱狂的な拍手喝采が湧き起こる。それが「音楽を楽しむということはこういうことなのではないかな」と思う所以である。

 

 

もう十年以上も前に、「東京の夏音楽祭」というものがあった。作曲家の石井眞木らが始めた年1回の音楽祭だが、その最後の年のテーマが「日本の声・日本の音」であり、そこで宮古島のカミウタのコンサートがあった。宮古島の音楽というのは、沖縄音楽の中でも沖縄本島の音楽とも八重山諸島の音楽とも異なる独自の進化系を持っている唯一無二の音楽と言われている。興味深く、そのコンサートを聴かせていただいた。
そして、最後に音楽家も聴衆も含めて会場みんなでカチャーシーを踊る、ということになった。

 

いや、そもそも踊るつもりで来ているわけでもないし、そんなマトモにカチャーシーなんか踊ったことないのに、なにやら演者に連れ出されて踊ることになった。けど、分からないから目の前にいる人と全く同じ動きをするように必死だった。
ただ、コンサートが終わってふと思ったのだが、カチャーシーってそんな必死になって踊るもんでもないし、自由でよかったんじゃないかな、と。

 

 

自由に享受する、そこにこそ音楽の深さの真理があるのではないだろうか。

 

 

有安杏果
実際、私は彼女の歌声にもう8年も心を奪われている。

 

昨年、LINE CUBE SHIBUYA(渋谷公会堂)で行われたライブ「サクライブ2020」の中からMISIAの「Everything」が公開された。

www.youtube.com低音からゆったりと始まるピアノ。最初の歌が導入され広がる、草原に佇むようなそよ風の匂い、涼しげで静かな音を感じる、穏やかな心地良さに包まれる。
最初の「You're everything あなたが想うより強く やさしい嘘ならいらない 欲しいのはあなた」に表れる幾ばくかの不安、細さ。心許なく、その先の未来はまだそれほど見えてこない。
2番へ、その先へ進むにつれて細さが徐々に落ち着き、一歩ずつ理解へ、確信へと変わってゆく。未来が開けてゆく。若干のフェイクが入り、その「信じる気持ち」が次第に形を変え、大きくなっていく。
「愛せる力を勇気に今かえてゆこう」によってその強さは自らに未だ無いものへの渇望、より大きなものへの憧景を抱いてゆく。もう一段高みへと昇ってゆく。
転調を超え、最後の「You're everything」でその強さは大きく開花する。それは山頂にたどり着き、言葉をなくすほどに美しい満天の星空を眺めているようでもある。
最後の「やさしい嘘ならいらない 欲しいのはあなた」の、何物にも代えがたい、心をえぐるような訴えかけ。この音楽の到達点がその姿を見せる。

 

「会えばきっと 許してしまう どんな夜でも」という一つの短いフレーズの中に楽しげだったり切なさだったりといういくつもの表情や感情が表れ、複雑な心情が込められている。それを見るについて、「この人は『技術的に上手くあること』以上に大切なものを深く理解しているのだな」と思えてくる。一つの歌を通して、草原から始まり山頂へゆっくりしかし確実に一歩ずつ山を登っていくようなストーリーを持つ。歌だけでなく、ドラムやベースもシンプルから徐々に装飾を増やしていき、バンドを含めた音楽全体がそのような情景世界を生み出している。実に、音楽的な音楽だと思う。

 

彼女のライブには独特の雰囲気がある。

 

たまに曲がバックビート(つまり2拍目と4拍目にアクセントがくる)であっても、聴衆のクラップが全ての拍(1、2、3、4拍目)で入ったりする。しかし彼女はあまりそういう所に小難しさを置いたりせず、全てを受け入れる。その音楽の享受には実に広く、そして美しい自由が湛えている。

 

ジャズ・シンガーのMel Torméが1990年に富士通コンコードジャズフェスティバルで五反田のゆうぽうとホールで行ったライブで「You're Driving Me Crazy」を歌った際、最初からクラップを入れようとする聴衆に対して「Wait, Wait, Wait, later! later! I need you later.(待って待って!後でお願いね!)」と咄嗟に止めに入るようなシーンがあった。
聴衆がより心地よく全体を聞ける道を作りそこへ導く、普通はそうであろう。それは前述の「ルール」とか「マナー」に近い存在のようにも思う。

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少し前に有安杏果の「Pop Step Zepp Tour 2019」のライブ音源がリリースされた。

www.amazon.co.jp冒頭からCoolな4beat Swingが展開されて耳を持っていかれるのだが、「ヒカリの声」でギターがうなりをあげ、「色えんぴつ」ではしんしんと降る雪のような静けさに包まれ、「くちばしにチェリー」ではシャッフルに乗せてレトロなゴリゴリ感に艶を乗せる。「小さな勇気」では本人のピアノ演奏で会場を温かな慈愛で包みこみ、「Do you know」ではややダークでファンキーでダンサブルなビートから山口寛雄さんのWalking bass lineに乗せて冒頭でCool Swingを披露したピアノ宮崎裕介さんによるシャープでエッジの効いた4beatのsoloが繰り広げられる。ここがまたかっこいい。最後に日本の夏の喧騒風情をどこか懐かしむような「ナツオモイ」でしっとりと終わる。

 

「feel a heartbeat」では、「みんなも歌って!行くよ!」という掛け声で聴衆を導いていくのだが、彼女の掛け声はどこまでも自由であることを基底として、否定をせず、音楽の世界へ引き込む穏やかさと優しさが籠もっている。そういう景色をライブの中で何度となく見ることができる。

 

彼女のライブは作り手としての音楽的深さを持ちながら、受け取る側に広い広い自由を見せる。

 

 

彼女は、音楽に愛されている。

 


私はそう思っている。