『クラング-1日の24時間』より13時間目「宇宙の脈動」/シュトックハウゼン

サントリー芸術財団主催
サントリーホール・サマーフェスティバル2020
「おかわり」シュトックハウゼン

 

カールハインツ・シュトックハウゼン
『クラング-1日の24時間』より
13時間目「宇宙の脈動」(電子音楽のための)

 

エレクトロニクス:有馬純寿


「4機のヘリコプターのそれぞれに、2人のヴァイオリン奏者、ヴィオラ奏者、チェロ奏者を分けて乗せ、離陸した後それぞれの奏者の奏でる音をコンサートホールに中継する」という「ヘリコプター弦楽四重奏曲」で有名なシュトックハウゼン。いや、演奏に29時間を要するオペラ「光」で有名、と言ったほうがいいか、はたまた、サントリーサマーフェスティバルと紐付ければ2015年に演奏された6人の歌手のための「シュティムング」が記憶に新しい、と言ったほうがいいか。あれは実に美しかった。
マントラ(2人のピアニストのための)」という曲も割と私はお気に入りで、星のようなきらめきと宇宙空間のような深遠さが同居した音空間で、こちらも拍子や調製に囚われない自由な音の流れでありながら、どこかほのかに心地よく、美しい。

 

ただ、「演奏の方針を指示した紙を提示することで作曲とする」という直感音楽など、記譜(楽譜に音を書く)から遠ざかっていく音楽、また電子音楽の取り込みなど、新しい技術の発明に伴い音楽の内容も前衛化が過激になっていき、現代音楽世界の中では特段に理解することの難しい分野の人というイメージがある。そんな作曲家、シュトックハウゼン


実はこの土日は別の「フェス」で横浜方面へ出向く予定であった。が、新型コロナの影響によりそちらが中止になり、ではサントリーホールへ行こうということになった。ただそう思い立った時にはこの日の昼公演チケットは完売しており、夜公演のこのチケットだけが入手できた。(※昼と夜ではプログラムは異なる。)
何か、サントリーホールに、というよりはシュトックハウゼンに「ちょっと来い、これを聞いていきなさい」と呼ばれたような気がした。


「クラング」。
遺作であり、未完成の音楽である。
24個の個別の音楽から構成される組曲、というよりは連作の音楽となる予定であったが、21作目までが完成され作曲者は鬼籍に入った。
その13曲目は「宇宙」の音楽。

 

器楽や声楽を伴わない、純然たる電子音楽

 

作曲者の解説「24層のメロディーによるループは、それぞれ1~24個の異なるピッチを持ち、24のテンポと約7オクターブにわたる24の音域で回転する。」(プログラムノート、松平敬・訳より)を読んでも、さていまいちピンとこない。「どういうこと?」。


サントリーホールの小ホール、ブルーローズには客席が配され(観客は1席ずつ空けて着席)、舞台上には使わないピアノ。
暗転。真っ暗なホールの中、舞台下手上方に丸いおぼろ月のような淡いライトの光。
客席を取り囲むように配置された8つのスピーカーから低く伸びる電子音がまず「開始の儀」のように鳴り響く。ゆったりとした低音から徐々に高音の方へと音が増えていく。その電子音たちは複数の層に分散されており、各層がテンポや拍子、あるいは調製、あるいは和音、あるいはメロディーといったものに囚われず、自由を得て、無作為に音の連続を前置きなく始め、回転し、そして脈略なく終わる。繰り広げられるすべての音、流れを把握することは圧倒的に不可能である。

 

ある音の高さ(音高)を持った音の流れ、塊が、左のスピーカーから後ろのスピーカー、右、前と移動していくと、音が会場をぐるっと一周したように感じる。音の連なりが異なる音高で密集するところ、音の密集が薄いところ、この濃淡が同じようにスピーカーを移動していくことで、これもまた音自身とは異なる回転する波として会場を一周していく。

 

同じ音の高さでもホルンの「ド」とトランペットの「ド」では音質が異なる。これは音高、あるいは音程(ピッチ)ではなく、その音に含まれる音波の周波数成分として高い周波数が多ければよりキンキンした煌びやかな明るいトランペットのような音になり、また低い周波数が多ければよりふくよかな曇った暖かみのあるホルンのような音になる。
この明るさ/曇りという音の性質もまた、密集とは異なる濃淡を与える。
電子音とはいえ、単純な正弦波の音ではなく、特にノイズであり、時にデチューンされ、ディプス、モジュレーションがとめどなく変わってゆく。それは時にはチェンバロのようであり、時にはオルガンのようであり、時には人の声のようでもある。

 

音が、そしてそれらが統合された「音楽」が、生き物のように実際に会場の中を脈動している。

 

「電子音響に耐性の強い人が多いであろう講習会の受講生の少なからぬ人たちが、演奏中に具合が悪くなって客席から出て行った。それぞれ異なる空間移動を伴う24層の濃密な電子音が、聴き手の平衡感覚を狂わせてしまうことも容易に想像できる。」(松平敬氏による解説より)

 

音の波が会場を渦潮のように飲み込んでいく。しかしそのスピードは一定ではない。
「宇宙」という言葉が与えられていれば、それは中心に置かれた惑星と周りを周回する衛星か、あるいは銀河の中心とそれぞれの星たち、というイメージと重なる。

その音の波の中に、ハープシコードのような明るさ、中央ドから1オクターブ上のドの周辺あたりの音高の一群の音たちがその銀河の回転面のよような平面の中央線を与えていてる。一群の音が一本の線となり、そこに纏わり付く回転系の音たち、それがさらに濃淡を持った複雑な回転を生み、さながらDNAの二重らせん構造のような音空間のような印象も与える。

 

松平敬氏の解説に「自分自身がミクロの世界に迷い込み、自分自身を取り囲む無数の素粒子の運動と一体化するようなイメージ」と書かれていたが、なるほどこの感覚かと腑に落ちる。


音の層が秩序なくバラバラに終わり、ある部分で「薄く」なると、「もうちょっと欲しい」という人間的な渇望感が生み出されそうになり、そこからまた音の層が新しく発生しそれが広がり、また「濃く」「圧が強く」なると、「いやもうちょっと落ち着いて」という人間理性的な抑制期待が生み出されそうになる。

という意味で、この音楽を「聞く」という作業の中に、聞き手としての自分の中に心理的な「波」の発生を覚える。

 

舞台上方にライトが一つ点っているのだが、これを目で見ていると、そのライトと音楽の因果を探そうとしてしまう。すると、会場中に繰り広げられる電子音の嵐への意識がそれまでのものから明らかな変質を及ぼしてしまい、簡単に言えば意識が音からライトへ移動してしまい、音に対する意識が若干に薄れることに、何か違和感を覚える。ライトを見ないように無理に目を閉じて、音の嵐の中にだけ意識を投影したほうがいいだのではないかと思えてくる。


この音楽は何なのだろう。
何かの音をサンプリングして組み合わせているわけでもない、どこかからメロディーを(あるいは”音楽的”要素を)「拝借」して組み込んでいるような痕跡も見られない(実際にはこの連作の一曲目の音型を使っている、とのことだが聞いてもそれが分からない)。


どんな人間の創造性がこのような音楽を実現するのか、不思議でたまらなくなる。これは「人間の創造性」の核心以外の部分を大胆にかつ極端にそぎ落とした結果の、最も純粋なものの姿なのではないだろうか、ふとそんな思いが脳裏をよぎる。まるで、ジャクソン・ポロックの絵を見ていた時に感じたもののようだった。

 

この「音楽」はその嵐のうねりの中、徐々に層が消えていき、少しずつ音がクリアに聞こえるようになって行く。最後に高音と低音の対話から高音の電子音楽ならではの素早いトリルが取り除かれ、冒頭と同じゆったりとした低音だけが1つ、2つ鳴り、30分ほどの嵐がおさまる。まるでソナタ
音楽はここで終わる。


一体何を体験したのだろうか、狐につままれたような夜だった。