「リトゥン・オン・スキン」、「トゥーランドット」

サントリー芸術財団50周年記念

サントリーホール・サマーフェスティバル2019

 

ジョージ・ベンジャミン作

オペラ「リトゥン・オン・スキン」

George Benjamin "Written on skin"(日本初演

 

大野和士・指揮

東京都交響楽団

 

ストーリーはこうだ。

権力を持ち自尊心高い領主(プロテクター)は、あるとき彼と彼の妻に関する行いを記す「装飾写本」を作るよう、技師の少年に依頼する。領主の城内で写本は製作されていくのだが、途中、プロテクターに従順であったはずの彼の妻が装飾写本技師の少年を誘惑し、関係を持ってしまう。
初め、それは妻の姉との関係だと嘘をつくが、プロテクターにその嘘はばれ、そして少年は殺されてしまう。

 

その夜プロテクターは彼の妻に「あるもの」を食べさせる。妻は「とても美味しいが、これは何?」と聞く。プロテクターは「それは少年の心臓だ!」と言い放つ。

 

プロテクターは彼の妻を殺そうとするが、それより前に妻は「こんなに美味しいものは最早何物にも代えられない」と錯乱しバルコニーから身を投げて自らの命を絶つ。

 

最初のほうには、背後に流れる草原に佇む中世のお城の映像にチェンバロが現れたりしていわゆる中世西洋絵画における寓意のようなコンテキストが浮かび上がる(図像学的には楽器すなわち「音」とは「消えててゆく運命にあるもの」であり、それ自体が刹那的な虚栄を意味する)。オーケストラに入れられたビオラ・ダ・ガンバの音色がさらにルネサンス音楽の色彩を添え、ますますヴァニタス(中世における寓意のある静物画)の世界を醸し出す。いわゆる「意味深」。

 

今回の演奏、ネット上の感想を散見すると「視覚的にビジーだ」という趣旨の意見が多いように見受けられた。たしかに、歌手による歌とそれに伴う演技、天使を意味する2人のダンサーの動き、美しき背景映像の風景とその転換、映像の内に登場する各登場人物のダンス、そして字幕、と若干のビジーさを感じるのは否めないが、「オペラってわりとこういうものじゃないかな?」と思わなくもない。

しかし、そこを他の作品よりも濃く違和感として感じてしまうのは全体的な雰囲気として「静物画の世界」を感じ取ってしまうからではなかろうか。

 

 妻が少年を誘惑する情景は麗しい甘美さに満ち溢れながらも人間の堕落する暗黒面を漂わせる。甘く、そして暗く、重い。

核心を突くプロテクターに対し嘘でかわす少年の背後に鳴り響くバスドラムによる心拍数の高い脈拍。物語が進むにつれ、情景は徐々に緊張と恐怖の色彩に支配されてゆく。

 

その嘘がばれ、少年はプロテクターと対峙、襲われる極度の緊張と、命を奪われる衝撃。そこから絶望の淵は聴衆へ視線を注ぎはじめる。この恐怖の支配は一体何なのか。その先に何が待ち受けるのか、不安感にさえも襲われる。

 

妻に少年の心臓を食べさせる様、妻がそれを少年の心臓という事実を突きつけられてなお呟く「おいしい」という言葉は、もはや狂気の宴。妻が錯乱してゆく。どこまでも恐怖が支配し続ける。

 

妻がその身をバルコニーから投げる様を、天使は興味を持ちながらも冷めた目で見つめ、そしてその身が虚空に墜ちる姿を「まるで時がその瞬間に止まってしまったかのように」写本の中に記録し、閉じ込める。

 

ここまで来てなお、天使の冷めた目は恐怖を心に呼び起こす。そしてその瞬間に悟るのだ、「そうか、この恐怖の支配は現代社会の再現に他ならないのだ」と。

 ある悲劇を興味本意の冷たい目で見つめられる、冷たい目線の中に記録されてゆく恐怖。それは「現代社会が持つ闇」と言って過言ではない。

 

最後の最後、ラストの一音が虚空に消えてゆき、その瞬間にこのオペラが示したかった事が初めてその全貌を現したのだ。「Written on skin」、つまり「皮の上に書き込む」という行為そのものがこのオペラの主題であった事が、脳裏に呼び起こされてゆく。

 

イギリス音楽ならではのどこかスモーキーで中低音の深みが響き渡るファンタジー世界、その甘美さといい、段々と恐怖に包まれていく展開といい、都響の演奏は素晴らしかった。

 

どこか、「美とはこういうものだ」と説得されたような感覚に陥った。

 

 

 

大野和士のオペラは先日バルセロナ交響楽団と共に披露された「トゥーランドット」を見たが、そのラストも衝撃的であった。

 

■オペラの夏2019-20 JapanTokyoWorld

 

ジャコモ・プッチーニ

オペラ「トゥーランドット

 

大野和士・指揮

バルセロナ交響楽団

 

トゥーランドットの世界はこうだ。

幼き中国の姫トゥーランドットは、その母が異国の男から暴行を受ける姿を見てしまう。

いや、この時点で「トゥーランドットってそういう話だったっけ?」と思うのだが。この様相が1幕前奏のさらに前に音の無い舞台上で繰り広げられる。

美しい姫に成長したトゥーランドットは、異国の王子たちから結婚を申し込まれるが「母の受けた暴力への復讐として」、結婚を申し込んできた王子に3つの問いを出し、答えられなかった王子の首を刎ねる、ということを繰り返していた。
 
だったん国の王子カラフは、国を追われた父ティムールと彼らを慕う女奴隷リューの反対にもかかわらず、この3つの問いに挑戦することを決意する。
 
そして、カラフは見事に3つの問いに答え、トゥーランドットとの結婚の約束を取り付ける。トゥーランドットはこの名も知らぬ王子との結婚を拒否するが、父から「それはできぬ」と諭される。カラフは「私の名前が明日の朝までに分かったら、私はこの首を差し出しましょう」と条件を出す。トゥーランドットは「(名前が分かるまで)誰も寝てはならぬ」というお触れを出す。
 
朝が来るその直前、小さな女奴隷リューが名を名乗らぬ王子の事を知っていると聞きつけたトゥーランドットは、リューを尋問し王子の名を聞き出そうとする。しかし、心の奥底で好意を寄せていた王子を守るために、リューはトゥーランドットの前で自らの命を絶つ。
 
今まで愛を知らずに育ってきたトゥーランドットは、そこで真実の愛を目の当たりにするのだ。
 
夜が明け、全てが明白になり最後の音が消えて終わりを迎えるその瞬間に、トゥーランドットは自らの首を切り、その命を絶つ。

ここに来てもなお、「トゥーランドットってそういうラストだったっけ?」となってしまう。今回の、序段の母娘のシーン、そしてラストのトゥーランドット自身が自らの命を絶つシーンは今回のみの演出である。
 
プッチーニ自身は、小さきリューがその命を絶つところまでしか作曲していないわけだから、その結末がハッピーエンドか、または悲劇であるかは後世に託されている。演出家アレックス・オリエは「この物語がハッピーエンドであるはずがない」との考えから、前述のようなラストになったという。多くの人間を死に追いやってきた恐怖の姫トゥーランドットの最期は、どうであるべきか、という結論なのだろう。

 

しかし、このラストは様々な考え方ができる。

 

リューの死を見せつけられたトゥーランドットは「真実の愛とは死ぬことなのだ」と曲解してしまい、それが故に自らの命を絶った。

 

トゥーランドットはリューの行動を目の当たりにし、真実の愛を悟った。しかし、その瞬間自らが今まで行ってきた行為、自らの内側に存在する氷のように冷たい心を知ることになってしまい、そこで悟った真実の愛とのギャップに苦しみ、自らの愛を相手に伝えるためには「その冷徹さをこの世から葬り去らなければならない」と考えるようになった。

 

いや、実は最期の時までトゥーランドットは真実の愛を理解することはできなかった。ただ、敗北のみが自らの心を埋め尽くしてしまったのだ。

 

様々な解釈ができる。

終わった後に大ホールホワイエへ帰る道すがら観客がほうぼうでラストシーンについてああでもないこうでもないと話している姿は、もう演出家の勝利としか言いようがない。そこには確かに現代における「愛の姿の多様性」について観客への「問いかけ」があり、戯曲としての秀逸さが光っていた。

 

演奏も良く、バルセロナ交響楽団の少し明るく軽めな音が、この重々しいストーリーに対する聞きやすさ、見やすさの向上に絶妙にマッチしていたように思う。重すぎてはいけない。それは「イタリアオペラかくあるべき」であったのかもしれない。
また、各メインキャラクターとの協奏、トゥーランドットとカラフ、リューら主要キャラクター間のバランスが見事であったように思う。時に「2人のヒロインが存在する物語」と解説さえされることのあるこの物語において、リューはついに最期まで女奴隷であり「小さきリュー」であり、決して「私が主役」という感じを帯びてこなかった。

キャラクターへの徹し方が見事であり、それが故にさらに物語に引き込まれることができた。

 

 

奇しくも、大野和士監督オペラを2作品立て続けに見たのだが、どちらも「最後の1音が終わるまで分からない」という作品であった。

 

作曲家芥川也寸志は音楽と静寂との関係を鑑賞という観点から次のように綴っている。

一つの交響曲を聞くとき、その演奏が完結したときに、はじめて聞き手はこの交響曲の全体像を画くことができる。音楽の鑑賞にとって決定的に重要な時間は、演奏が終った瞬間、つまり最初の静寂が訪れたときである。したがって音楽作品の価値もまた、静寂の手のなかにゆだねられることになる。
芥川也寸志「音楽の基礎」、岩波新書より)

 

音楽が元来の本質としてそうであるという事実以上に、戯曲としての性格を持つ「オペラ」では、まさにそここそが、「オペラの持つ醍醐味」なのではないだろうか。