父は音楽の先生で、大学で名誉教授にまでなった人だった。

 

専門は作曲で東京藝大の出身だが、楽理(音楽理論)の先生でもあり、ピアノの先生でもあった。

 
「いつも楽しそうにピアノを弾く先生で、レッスンが楽しかった」「魔法のように素敵なメロディーが生み出される、楽しいレッスンだった」というメッセージを教え子の方から多く頂いたりした。ある時、ラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」をピアノで演奏した時に、どうも凄く好きな曲だったらしく、別の演奏家の方から「そんなにこの曲を楽しそうに弾かないでください」と言われた、なんていう話もあったそうだ。
父の授業を大学で受けた人からはこんな話も聞いた。「ある日、学生の一人が犬を連れて授業に現れたんです。そうしたら先生は怒るどころか、その犬と一緒に教室の中を散歩して、仕舞いには犬と一緒にピアノを弾こうとして犬の手をとったら犬にワンワンと吠えられて『怒られてしまいました・・・』としょんぼりしていたのが、強烈に印象に残っています。」 総じて「穏やか」で「楽しい」音楽の授業、いろいろなお話を聞くとそんな風景だったことが想像できた。

 

もっぱら、私が子供の頃は子供たちにも音楽家になってほしかったらしく、ヴァイオリンやピアノの「おけいこ」に通った、というより通わされていた。とても厳しくて、父が夜遅く帰ってきてから「じゃあこれから練習するぞ」みたいな事もしょっちゅうあって、たまに自分で「もう遅いから寝ました」なんて書き置きして寝たこともあった。ヴァイオリンは左手の指の指板に下ろした位置でその音高、音程が大きく左右されるが、旋律が細かくなったり重音になったりすると音程の取り方がどんどん難しくなっていって「うまくできない」がどんどん出てくる。その段階でボウイング、つまり右手で弓をどう操るかまで考えが及ばないくらい、いっぱいいっぱいだった。間違えることも多かった。そういう部分は本当は練習してカバーしていかなければいけないのだが、練習もそんな感じでイヤだったこともあって、ヴァイオリンの先生のレッスンでもうまくできなくなったりする。そうすると、それを見ていた父に腕をつねられたりして、ヴァイオリンの先生の前でポロポロと涙したこともあって先生から「あらあら、どうしたの?」と心配されたこともあった。父の音楽教育は「厳しかった」という印象があるから、教え子の方々のお話はどうにも私にとって意外だった。

 

ヴァイオリンの教則本に書かれている曲のアレンジが気に入らなかった事があって、発表会でやるのに「最後をこういう風に終わらせたほうがいい」と父が書き直して、それをヴァイオリンの先生と「そちらのほうが全然いいですね!」って盛り上がってたことがあった。元の譜面よりずっとシンプルな終わり方にになっていて、それが当時はどのくらい良くなったのかが分からなかったけど、今思えば確かにずっといい終わり方だなぁ、と感じることができる。ちなみにそのアレンジは後にその教則本に採用されていた。

 

そんな父だったので、私は小さい頃からピアニストや指揮者などいわゆる「プロの音楽家」という人を見る機会がたぶん他の人より多かったように思う。まだ私も小さかったので父と話している見知らぬ人がどういう人かもよく分からなかったが、大きくなってからそれが普通によくテレビで見る人だったりするのが分かって、「あの人はそんなに凄い人だったんだ」と思う事もあった。ある時はそれがJ-FUSIONの先駆的な人だったりということもあって、どういう関係であの時話をしていたのか、今でもさっぱり分からなかったりもする。それが良かったのかどうなのかは分からないが、そういう環境の中にあった子供だったので「あぁ、プロの音楽家ってこんな変な人ばっかりなのか」という印象を持っていたことは今でもよく覚えているし、それが自分の将来を考える時の一つの要因となったことは否定はできない。小学生ながらに「音楽家として尊敬できるかどうかと、人として尊敬できるかどうかは別問題だな」とさえ思っていた。

 

ヴァイオリンができる管弦楽部というものが私の中学にはなかったので、友人の勧誘もあって吹奏楽部に入ることになった。打楽器をやることになった経緯はあまり覚えてないが、ヴァイオリンの先生からは「あなたはリズム感がないから良いかもしれない」と言われたことは覚えている。それから高校へと吹奏楽部を続け、大学進学の時分になって、さて音楽系に進むかどうか、となった時に父から「音楽系はやめておけ」と言われたりもして、理系の大学へ進んだ。そこで私は音楽を完全に趣味の位置においた。

 

いや、私にとって打楽器はその道に進んでもよいなと思えるほどに楽しかったのだが。高校での吹奏楽部では一時期打楽器パートが私一人だったりした事もあって、そうなるといろんな曲を全部自分一人でやるために、自分の周りにスネアドラム、シンバル、ティンパニシロフォンヴィブラフォン、タンバリンやトライアングルなどの小物を全部並べて、まるで秘密基地のように楽器に取り囲まれて両手両足を使っていろんな音を出す、複数の楽譜を同時に見ながら「Solo」と書かれているのを見つけてはそれを落とさない(演奏抜けのない)ように一発バシッと音を出すのは、かなり無理矢理な演奏だったわけだが、それはそれで気持ちよかったし楽しかった。今でも、YouTubeにアップされている「Percussion Cam」という、いろんな打楽器を一人で操る姿を写した動画を見ては「楽しそうだなぁ」と思ったりもする。

 

父は、いわゆる「吹奏楽」というジャンルがよく分からない人だった。というか、後で「あまり好きではなかったのかもしれない」というお話まで聞いた。吹奏楽曲はあまり作ってこなかったし「学生からヤン・ヴァン・デル・ローストの話とかを聞いたんだが、それが誰なのかさっぱり分からない」「ディスコキッドという曲のアレンジCDを頂いたのだが、この曲は有名なのか?」という相談を受けたこともあった。とはいえ、以前ある知り合いの中学校の吹奏楽演奏会を聞きに行ったら、偶然にも父の編曲した譜面が使われていて、レアな機会に出会えたこともあった。父の作った数少ない吹奏楽曲は、実際には吹奏楽をよく知っているような見事な作品だったのも、私にとって凄く意外な出来事だった。補作があったのかもしれないが。

 

私は、中学高校から大学へと吹奏楽にどっぷりで、コンクールにも出たし、大学ではコンクールの運営人として舞台裏の住人にもなった。「吹奏楽の甲子園」と言われた普門館の舞台裏にもしばらく立って、そこで生まれた伝説も幸運にも立ち会うことができた。そんな人間だったので「コンクール至上主義」の良さも悪さもなんとなく肌で感じることができたが、父は吹奏楽というジャンルが嫌いだったというわけではなくて、本能的にそういうものを避けていたのではないか、とも思う。そういえば、私がコンクールの運営人だった時に吹奏楽コンクールの大学予選を全部聞きに来たことがあった。感想を聞いたら、まずはじめに「あれ全部聞く審査員は大変だね」という言葉が出てきた。そして、1団体ずつ細かくメモを書き込んだプログラムを見ながら、自分が感じた「良い演奏」とコンクールの審査結果が異なっていたりして、なんだか不満ともとれるような意見を聞いたこともあった。

 

父はどっぷりとクラシック音楽分野の人だったので、それこそ私も初めて買ったCDがチョン・キョンファの演奏するチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲(シャルル・デュトワ指揮、モントリオール交響楽団)だったり、中学時代にはシベリウスのヴァイオリン協奏曲(演奏者不明)に出会いその魅力に取り憑かれたりして、どっぷりクラシック畑だった。その当時はまだ著作権の切れていなくて値段の高かったシベリウスの楽譜を買ってきてくれたこともあった。ただ、あるときからそんなわけで、父と私は異なる音楽経験をするようになっていった。

 
私はゲームFinal Fantasyをやったりして植松伸夫の音楽も好きになり、特にFF4の「Celtic Moon」というアレンジアルバムを聴いてケルト音楽というものに興味を持ち、ケルト神話を読んだりして、それがシベリウス音楽が持つ「スオミ」(=フィンランド)の世界観や、グリーグの「ホルベルク組曲」が持つノルウェーの深い森、自然が放つ「木の香り」のする世界感などと重なってゆき北欧文化の魅力にどんどんハマっていくのだが、父はどちらかというとシューマンメンデルスゾーンなどのドイツ音楽やフォーレラヴェルなどのフランス音楽が好きであったので、そこにも趣味の境界線が少しずつできてきたな、と感じる時期でもあった。

 

ある時、プロコフィエフのバレエ曲「シンデレラ」に、同じくプロコフィエフの「3つのオレンジへの恋」の行進曲が丸々使われていることを見つけ、他にも引用がないか、プロコフィエフの曲をいろいろ聞いていたところ、父から「お、いいね。プロコフィエフの専門家になったらどうだ?」と言われたことがあったな。あまりにも父の一言が斜め上すぎていたので、私は全く本気にはしなかったが。

 

さらに私は大学に入ってオリヴィエ・メシアンの「我死者の復活を待ち望む」(ピエール・ブーレーズ指揮、クリーヴランド交響楽団)を聞き、これが衝撃的な出会いとなり、「現代音楽」という深淵なる世界の扉を開けてしまった。それから黛敏郎シュトックハウゼン、トリスタン・ミュライユなど新しい音楽を聴き漁るようになった。無調無拍子の世界、しかしその描く表現主義的な意味論と、ジャクソン・ポロックの絵のような抽象主義的な方法論の交錯する世界の魅惑は自分にとって新しくて実に面白いものだったが、「無調無拍子でなければ音楽ではない」という世界で作曲を学んできた父にとってその世界はむしろ拒否反応さえ持つものだった。「そういう音楽(無調無拍子)、作るの得意だよ」父はよく言っていた、もちろん皮肉をこめて。武満徹や石井眞木、矢代秋雄など日本近代作曲家の話になると、よく「あの先生はあの先生の弟子で」という歴史的な話をしてくれた。

 

 
そういう話とは全く平行して、父とは様々なジャンルの音楽の話をした。

 

父はよくStevie WonderABBA、Earth Wind & Fireを聞いていたし、Earth Wind & Fireの日本公演DVDはお気に入りだったようで大学の授業で鑑賞会もしたようだ。1年ほど前に一緒に旅行した時は車の中でずっとQuincy JonesのThe 75th Birthday Celebration liveを流していたら、とても楽しそうに見入っていた。昔からBill Evansの音楽も好きで、"One For Helen"などの曲のアドリブを全部書き起こした楽譜を買ってきては見たり演奏しようとしたりしていた。私がピアノ譜をPCに打ち込んで譜面に載っていないベースラインとドラムを打ち込んでみたら、それを頼りに演奏しようとしていたようだった。Chick CoreaHerbie HancockDave Grusinのアルバムなんかを買ってくることもあって、そういうものを私も聞き、ジャズやブラックミュージックのカッコよさも知ることができた。私は高校時代に私の友人の多くがそうであったように、ルパン三世'80のビッグバンドとヴィブラフォンの組み合わせというものがカッコイイと思って、そこからMilt Jacksonの"Invitation"というアルバムを買ったことを皮切りにジャズヴァイヴの世界、そこからジャズをいっぱい聴くようになってBenny Goodman QuartetのLionel HamptonGary Burtonを聞くようになったり、Herbie Hancockの来日ライブや、Milt Jacksonが共演した「西海岸最強ビッグバンド」と呼ばれるThe Clayton-Hamilton Jazz Orchestraの来日ライブを聴きに行ったりした。Gary Burton小曽根真と一緒にクラシック音楽をアレンジしたアルバム"Virtuosi"を発見し、ラヴェルの「クープランの墓」がジャズになっているのを聞いたり、あるいは小曽根真東京都交響楽団バーンスタイン交響曲「不安の時代」を演奏しているのを聞きに行ったり、ラテンジャズのパイオニアであるMichel Camiloの自作自演のピアノ協奏曲を聞きに行ったりして、ジャズとクラシックの交差点というものの存在が確立していることを知り、それはそれで面白いなとも思ったりした。特にMilt Jacksonの音楽はジャズヴァイブの世界でも美的感覚の鋭さがすさまじく、私はその「神様」と呼ばれる音楽世界に陶酔さえした。

 

父は作曲や楽理の先生であったが、大学では10年を超えてポピュラー音楽理論ワールドミュージックの授業も行っていた。それこそ最初の頃はジャズとは何か、みたいなものも随分と専門分野外だったようであらゆる本とCDを買い込んで研究していた。私がミシシッピ・デルタ・ブルースやテキサス・ブルース、シカゴ・ブルースの曲を並べてそれぞれの違いをCDにまとめて父に渡したこともあった。「ビバップとスウィングのドラム奏法の違い」みたいな話を父とした事があって、「バスドラムの踏み方が違う」みたいな話に「それ面白い」と父が返し、やいのやいの楽しい話をした記憶がある。

 

父はそういった研究を行っていたこともあり、本当にいろいろな音楽をよく知っていた。Sérgio Mendes & Brazil '88や、Antonio Carlos Jobimもよく聞いたし、ボサノヴァのライブには連れて行ってもらったりもした。父はボサノヴァのリズム形態は8ビートベース、と言っていたがあれはサンバ・バトゥカーダがジャズアレンジされてきているものだからスローな16ビートと捉えるべきなんじゃないか、サンバとボサノヴァの繋がりはよく認識されないといけないのではないか、なんていう議論をしたこともあった。「マリアッチとはどういう音楽なのか」と説明されたこともあった。いや、質問した記憶はないが。Ravi Shankarの凄さの話から、タブラというインドの打楽器の鳴らし方の困難さと極めて複雑な拍子をとるリズム形態の難解さ、そして1曲で30分を超えることもあるその音楽の単純な長さの話になって、北インドの音楽と南インドの音楽は違うんだ、と力説されたこともあった。私が沖縄は宮古島の伝統音楽の演奏会を聞きに行き、カミウタを聞いて最後にカチャーシーを踊った、という話をすると「オタクだな」と言われたこともあったが、いやいや、と。能や狂言、歌舞伎、浄瑠璃長唄なんかもよく知っていたようだったが、私が全く知識がないもので、さっぱり話をすることはなかった。日本音楽では、雅楽の話を少しだけすることがあった。「まずは越天楽を知るべきだ」「宮内庁の演奏が素晴らしい」、そんな事を言っていたが。父の作った音楽の中には日本的な旋律を取り入れた作品もあって、いわゆる邦楽に対する一通りの分析はもう随分昔に通り過ぎたようであった。ただ仏教声明については、「天台声明と真言声明という2大声明があって」といったような話はむしろ父はよく知らないようであった。が、声明とグレゴリオ聖歌のコラボレーションCDを見つけてこれを家で流していたら「これは面白い」と言っていたことがあったな。

 

映画音楽、ミュージカルの話もよくした。テレビを見ていて、何かしらの音楽が流れると「これはベンハーの音楽」「これはスタートレックの音楽」「これはザ・ロックの音楽」「いまのはETの音楽」みたいに言い合いっこになることもあった。父からはジョン・ウィリアムズの音楽だけでなく、ジェリー・ゴールドスミスの音楽やミクロス・ローザの音楽なども知った。久石譲の音楽はむしろ「ミニマルミュージック」というスタイルのイメージが強かったようで、ジブリ関係の音楽が流れると、そんな話になることも多かった。ミニマルミュージックはあの当時の一つの流行りでもあったから、その影響も強いのかもしれない。「久石譲の名前はQuincy Jonesからきてる」なんて話は父から聞いた。僅かではあったが、大島ミチルの音楽や菅野よう子の音楽についても話すことはあった。私個人的には菅野よう子はゲーム「信長の野望」やアニメ「攻殻機動隊」、あるいは映画「紅の豚」のエンディングテーマ「時には昔の話を」なんかで知っていたが、父はNHKドラマ「ごちそうさん」や「直虎」で知ったようだから、少し情報ギャップがありつつ話ができたことはなんだか不思議な感じだった。「紅の豚」は父と見に行った映画だったが。

 
オペラ座の怪人」の音楽も好きで授業でも使っていたこともあるようだけど、アンドリュー・ロイド・ウェバーのその他の作品、「ジーザス・クライスト・スーパースター」、「CATS」なんかもよく聞いていた。むしろここらへんの音楽は父というより母が好きだったようにも思えるが。「天使にラブソングを」の劇中歌「Joyful Joyful」をアレンジしようとした時に「こんなの生楽器で出ないよ」と嘆いてたこともあったし、「オペラ座の怪人」の曲を楽譜に起こそうとしていた時に、「どこで拍子が変わるのかが分かりづらい」と言われて「ここで4拍子から2拍子に変わって、2拍子が1小節続いてから4拍子に戻る」というような事を一緒にチェックしたこともあったかな。

 

父はJ-Popsを聞いていることは少なかった。サザンオールスターズは好きだったようだが。私はゲーム音楽やアニメ音楽、そこからala、ハイスイノナサ、WEAVER、WHITE ASH、在日ファンク、レキシなどなどのJ-Pops、J-Rock、それにももいろクローバーZ有安杏果私立恵比寿中学Negiccoなどのアイドル音楽にも目覚めるようになって、アイドルライブで「イェッタイガー」って叫ぶ面白さが最近分かるようになってきた。アイドル現場における「イェッタイガー」というコールは好きな人も嫌いな人もいるが、いわゆるオタ芸を含めて、「演じる」と「聞く」の立場がクラシックコンサートやジャズライブなどにおけるそれとはだいぶ異なるバランスが要求されていて、たまにそれが崩れることがあってそれが嫌がられる原因の一つなのだろうが、奇跡的なバランスの中で両者の関係がうまく保たれている現場においては非常に力強い。が、父とはついにその分野について話すことはなかった。

 

 
音楽という分野は知れば知るほど奥が深く広い。クラシックはクラシックの楽しみ方というよりは「楽しむポイント」みたいなものがあって、それは現代音楽にも同じように「楽しむポイント」がある。同じようにジャズにはジャズの「楽しむポイント」が、映画音楽にも、インドの音楽にも、雅楽にも、ゲーム音楽にもアニソンにも、アイドル音楽にも、クラブミュージックにも、ファンクにも、ロックにも、パンクやメタルにもヒップホップにもそれぞれ「楽しむポイント」がある。ある分野にだけゾッコンとなっていて、そこからかけ離れた分野が自分にとって「面白くない」と感じるとき、それは実際に面白くない音楽であるわけではなく単に「楽しむポイントを知らないだけ」なんだと感じるようになってくる。何度も何度も聞いているうちに、例えばアイドル現場における「イェッタイガー」の在り方論みたいに、面白くなるポイントが徐々に分かってくる。現代クラシックの無調無拍子やチャンスオペレーションミュージック(サイコロを振って出た目でどの音を鳴らすかを決めるような音楽)も最初はさっぱり意味が分からなかったが、いっぱい聞いていくうちに、その中の無機的な構造性にどのような人間の感性が挿入されていくか、どのような風景や匂いが乗ってくるか、といった面白くなるポイントが少しずつ分かってくる。自分にとって新しい音楽の分野に興味を持ち、聞く、ということを繰り返し繰り返し行っていくと、「今自分の知らない音楽であっても、それは自分にとって面白くない音楽なのではなく、自分がまだその音楽の面白さに気づけていないだけなんだ」という感覚がどんどん根付いてゆく。

 

あらゆる音楽ジャンルが持つ「楽しむポイント」をかき集めてきて、それぞれのジャンルの固有な部分、そのジャンルでしか通じない部分をどんどんそぎ落として、共通に考えられるところだけを拾っていく。そうすると、最後には、全ての音楽ジャンルを包含した、最も純粋な意味での「音楽」が持つ魅力だけが残る。それは、地域や時代、人種や年齢を遙かに超越した「人間という生き物にとって大切なもの」としての音楽だけが残るのだ。

 

舞楽やお囃子、グレゴリオ聖歌黒人霊歌も、あるいはマンボ、あるいはガムランのような音楽もそうだが世界中に存在する極めて多くの音楽や舞踏が、神事や呪術、豊穣豊作や泰平あるいは死後の世界に対する「祈り」の用途をその根に抱えているわけだが、しかしそういった「用途」を超えて人間は元来として音の連続したものを楽しむという気質が備わっているのではないだろうか。極論を言えば、そうった用途がたとえ無かったとしても、音楽という文化は発生していたのではないだろうか。それこそ文字の文化が流入し成立する以前の日本に古くから受け継がれてきた「うた」の文化のように、宗教的なあるいは儀式的な意味合いよりももっと「ただ楽しむ対象として」の音の世界、あるいは音楽的な何かがあったのではないか、とさえ想像を膨らませることができる。

 

「この世の中のあらゆる人は自分が楽しいと感じる音楽の世界を持っている」という事実は、実に凄い。しかしそれは「人間にとって大切なもの」としての音楽が存在するからこそ為されるものであり、だからこそ「音楽でしか癒やすことのできないもの」を人の心に届けることができるのだ。

 

ここまできて初めて、音楽って何なんだろう、と考えるスタートポイントに立てるようになると思う。

 

このポイントまで来て音楽の話をするのは非常に難しい。このポイントで「趣味が合う」と言える人とはまず巡り会うことはできないだろう。家庭内であっても、例えば兄はシラーの詩を「下手くそ」と言い切ってしまうほどに文化芸術的なものに興味が無く、そういう意味で、父ほど多岐にわたる音楽の話ができた人はいなかったし、これからもいないだろう。

 

 
そんな父がこの2018年の10月7日に亡くなった。
父の葬儀では父が作曲したレクイエムを流した。

 

 
父が最期に聞いた音楽は、9月25日にサントリーホールで演奏されたサイモン・ラトル指揮、ロンドン交響楽団によるマーラー交響曲第9番だった。私がプレゼントしたチケットで、私は聞きに行けなかったのだが、その演奏を聴いた父は「凄かった」と興奮気味に語っていた。1~3楽章までと4楽章とで違う曲かと思うほどに、ラトルの4楽章への力の込め方が凄かった、と。私は「1楽章冒頭のファ#-ミの音型は、マーラーの前作『大地の歌』の最終楽章で『永遠に』という歌詞に付けられている音型だ」というと、「2つの作品は繋がっているのか」と応えた。そうなのかもしれない。「永遠」という音型は「ファ#ーミ-レ」であってはいけない、それでは音型として”完結”してしまい永遠とはなり得ないし、かつ安易にすぎる、あれは「ファ#-ミ」でなければならないのだ、そういう話で父と盛り上がった。

 

「生」への執着が詰め込まれた「大地の歌」から「永遠に」という言葉を介して繋がる、マーラー最後の交響曲。全ての交響曲の中で最も特別な音楽。その最終楽章は安らかなアダージョであるが、その最後は一段とゆっくりと、そして徐々に音の数も少なくなってゆき、仕舞いには第二ヴァイオリンとヴィオラとチェロだけが残りごくごくシンプルな変ニ長調の穏やかな和音が静かに響き、「青空に融けゆく白雲のように」(ブルーノ・ワルター)ゆっくりと消え、終わる。

 

父の携帯メールの履歴には、9月27日に仕事上の付き合いのある方に「命の期限が近づいているようです」と送っていた形跡があった。
迫りくる死を感じながら、この音楽が来たるべき平穏を予見するものであったら、と願う。

 

 
私は父のおかげで、「人間にとって大切なもの」を感じられるところまでやって来ることができた。
ありがとうございました。