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単独者たちの王国〜めぐりあう響き

サントリー芸術財団サマーフェスティバル2016

ザ・プロデューサー・シリーズ

佐藤紀雄がひらく
〈単独者たちの王国〉〜めぐりあう響き

 

・クロード・ヴィヴィエ「ジパング
・マイケル・トーキー「アジャスタブル・レンチ」
武満徹「群島S.」
リュック・フェラーリ「ソシエテII〜そしてもしピアノが女体だったら」
・(アンコール)武満徹「波の盆 - 第1曲」

 

佐藤紀雄 指揮
アンサンブル・ノマド

 

20世紀というドビュッシーからシュトックハウゼンまでいた激動の音楽史の中で、作曲技法における主義のコンテキストから一歩はずれ、自らの信念によって自らのの美的世界を独自に生み出した「単独者」たちの饗宴。

 

今日の演奏に、「芸術」という無限に壮大なものの中の、最も奥深い本質を垣間見たような気がした。


ヴィヴィエ「ジパング」。
弦楽合奏だが多彩なボウイングを駆使することで、その音色の幅が豊かになる。しかして、その音は全体的にどこかドライであったように思えたのは席のせいか、曲のデザインゆえか。それはどうにもまるで月夜の砂漠のような印象でもあり、「ジパング」という名前の不思議にふわっと包まれた。(曲目解説上にも詳しい由来はなかった。)

 

トーキーの「アジャスタブル・レンチ」。
曲目順でこの位置に最適な、クッションのようなオシャレなお菓子を置いて壮大なメイン料理に備えるような、とにかくポップで可愛らしい感じの音楽。木管楽器がリードする小粋でノリのいい4小節一区切りのリズムに乗せて、様々な楽器が交差し発展しながら音楽が展開していく姿は、さながらミニマルミュージックのような心地良さ。

 

そして、曲順が前後するが、問題のフェラーリの「ソシエテII」。
まずピアニストが蛍光イエローのポロシャツ、ハーフパンツ、スニーカーというランニングウェアで登場したところから、何やら不穏な雰囲気。打楽器ソロ3人も動きやすい格好ではあったが、打楽器というパートの性格上、それはそれほど違和感はなかった。

 

この音楽の内容はといえば、20世紀中盤に一種流行した無調無拍子の前衛感丸出しの音楽。ピアノは内部奏法やら、腕全体で鍵盤を叩き音をクラスタリングしたり、ピアノの縁を鞭で叩いたりと自由奔放。打楽器も3人がそれぞれ舞台上を楽器や楽譜、マイクを持ちながら縦横無尽に動き回りとにかく叩きまくる。ピアノの中にボンゴを置いて、ボンゴとピアノを同時にマレットやらドラムスティックやらで叩きまくる。かと思えば、打楽器奏者がピアノの前に座っているピアニストを引きずりおろして自らピアノの鍵盤を叩く。弾く、というより叩く。ピアニストはヤケになったか、打楽器を叩き出す。指揮者は演奏の途中で何かを放棄したかのように、指揮台の隣に置かれたソファに座っておもむろに新聞を読み始める。一応背後にオーケストラがいるのだが、この4人の熱量が凄すぎて、聞いた後に「あれ?どんなことやってたっけ?」と思われても致し方ないのかもしれない。もはや「この音楽に楽譜というものは存在するのだろうか?存在する必要性はあるのだろうか?」とさえ思うほどの音の嵐。

 

その音がふっと消え、指揮者は観客に礼をする。観客の拍手と「ブラボー」の叫び。指揮者は舞台袖へ捌ける。かと思えば突如ピアニストがオーケストラに向かってさらにしっちゃかめっちゃかな演奏を再開。指揮者は走って指揮台に戻り、演奏を「止めさせる」。
再び拍手。

 

「呆気にとられる」とはまさにこのこと。

 

目の前に座っておられた女性が演奏中その熱量にやられたようで、終始クスクス笑い続ける。最初怪訝に思っていたが、打楽器奏者がピアニストを引きずりおろしたあたりから、「あぁ、これは狙ってやってるわけだから、笑うのが正解かもしれない」と思えてきた。プロデューサー佐藤氏自身によるプログラム解説にある、「(作曲者は)作品から逃れられない宿命を演奏家にあずけたあと、自分は一歩引いたところで笑みを浮かべて眺めて楽しんでいたに違いない」という言葉をふと思い出し、笑いも含めたところで作曲家の掌の中にいたんだろうな、とさえ思った。

 

人間、思想、哲学、倫理、宗教、国家、政治、戦争、自然、愛、希望、美、憎しみ、卑しみ、醜さ、絶望、死、生…この世の全ての表現対象を遥かに超えてそのずっと奥底の、最も根深いところに「笑い」を置いたことによって、芸術というものの重さと、それに対して表現家のやっていることの軽さを同時に目に見える形で提示したのではないだろうか。


「だかこそ」なのだが、フェラーリの前にやった武満徹の音楽が必要だったのだ。この武満徹の緻密で圧倒的に高い完成度があったからこそ、前述の主張が極めて立体感を帯びてくる。

 

武満の「群島S.」は、5つのグループに分かれたオーケストラが、それぞれに響き合い、さながら「群島」の自然美を醸し出すわけだが、これがとんでもなく美しい。

 

武満の音楽はシベリウスと少し似通ったような雰囲気を個人的に感じていて、それは何かといえば音の数が少なくなればなるほどに澄み渡った美しさがどんどん増していく。少ない音の集合で透き通った大自然を表現してゆくがゆえに、アラが出れば濁りはよく目立つ。

 

「群島S.」はその名の通り、やや短めなフレーズがふとした無音を飛び越えながら繋がっていく。それぞれのフレーズの一つ一つの仕舞い方が濁りなく丁寧であるほど、その無音は美しく光り輝く。そしてそれは実に美しいものであった。客席に別れた2本のクラリネットの響き合い、途中のトランペットソロ、ファゴットソロ、ホルンソロ。どれも美しい。「武満徹の音楽を体験する」ということに対しては十二分な完成度の高い音楽だった。

 

「単独者の王国」、各作品は全くその国籍も時代も作風も方向性も編成さえもバラバラではあったが、こう一通り見終わってみると、最初から最後に至るまで実に自然な流れの中で「芸術とは」という核心へと知らぬ間に徐々に迫っていく、実に意義深い演奏会であった。

 

凄いものを見た。