新日本フィル、ブリテン「戦争レクイエム」

ダニエル・ハーディング指揮
すみだトリフォニー定期
ベンジャミン・ブリテン「戦争レクイエム」


「私は罪ある者として嘆き、
罪を恥じて顔が赫らむ
乞い願う者を憐れみたまえ、神よ。」


私は新日本フィルに讃辞を送りたい。
彼らの「戦争」という芸術は、観客がもたらした冷ややかな反応と共に、完成を見たからだ。
インスタレーションだった、といってもいい。

戦争を題材とした作品は、ベートーヴェンの「ウェリントンの勝利」を始め古今東西数多存在する。チャイコフスキーの「祝典大序曲1812年」や、ヴェルディの「アイーダ」といった超有名作品と比べれば、ブリテンの「戦争レクイエム」は知る人ぞ知る名曲でありながら、しかしマイナー作品の部類とも言えよう。

とはいえ、実際会場に行ってみれば意外と入っている。
戦争レクイエムもメジャー作品になったもんだ、とも思った。


しかしどうだろう。
私は演奏中、右と左と後ろの3方向からのイビキに囲まれて、戦争レクイエムを聞き、見た。
長らく新日本フィルの定期会員を続けているが、こんなことは初めての経験である。

バリトンが「わたしの焼けつく心は、痛みに縮み上がっている。これこそが死です。」と歌うのを、イビキと共に聴いたのである。
それ以外にも、ずっと後ろのほうからビニール袋のくしゃくしゃとした音が響くし、2階からチラシが落ちてくるし、一体全体何なんだ、と。

そうか、ここの会場には「戦争」という「ファッション」に釣られてやってきた人が、それなりに多いのか。しかし、そういうファッションを生み出した元凶は何かといえば、昨今の「戦争」ということばの流行である。
ここで僕は政治的な話を持ち出す気はない。「戦争」という「ことばの流行」をもたらせたのは、ひとつには安保法案関連の賛成派反対派双方の影響である。しかしそれは、「単なることばの流行」に過ぎない。彼らは、「戦争」ということばの意味を消し去り、価値だけをもたらしたのだ。言い方を変えれば、そこに箱がある、箱には「戦争」と書かれているが、中身が何かは分からない、そんなただの箱に中身が何かも分からないまま、賛成だ反対だと騒ぎ立てている餓鬼達の狂乱である。
実はその箱を開いてみれば中には鏡が入っており自分たちの顔が映し出されるのではないか、とさえ思う。それは人種や思想ではなく、「私の思想は常に正しく、私の思想に相容れない相手には、その道を正さねばならない」という心である。

それでも戦争はなくならない、人間が人間であるかぎり。
その訳は、「正しくありたい」という心があるからではないだろうか。

戦争レクイエムは、レクイエムと銘打っており曲の構成もミサに準じてはいるが、その中身は宗教性のそれほど高くはない戦争詩であり、イギリス音楽らしい霧がかった、しかしどこかリアルな矛盾を含んだ音楽物語である。

演奏家が如何に「戦争」ということばの「意味」を詩にして悲痛な叫びと共に、あるいは深い慈愛と共に歌いあげたとしても、それは大勢のイビキと共に流される。それが実に現代社会の縮図を表しているようで、そういう意味で、観客の冷ややかな反応と合わさったところで見事にインスタレーション芸術としての完成した姿を見たのだ。

恐らく、新日本フィルがこのプログラムを組んだ時、そのような社会情勢の変化まで汲み取れてはいなかっただろう。ならば、今日の日の芸術的完成は、偶然の産物である。ただ、その偶然の産物に実際に傷ついたのは新日本フィル側だったのかもしれない。

それは実に美しい芸術であった。
人間の醜さを露わにした、美しさである。