雑記 - 有安杏果のこと。

我々の思想には、具体と抽象の間に無数の段階を持っている。
ある具体の層で問題が発生すれば、そこから本質と類推されるものを抽出し雑多な周辺事象を排除した一段階上の抽象の層へ上がり、そして問題を考え対応を考え、そしてまた具体の層へと降りてゆく。問題が大きければ大きいほど、上り詰める抽象の層は、よりその抽象度を増していく。

 

ももいろクローバーZ有安杏果が、引退した。
実のところ、この事件はここ数年で一番衝撃的だったし、今もってそれをうまく飲み込めているのかどうかと問われれば少し言葉に詰まる。

 

ちょうど、昨年仕事でベルギーへ行った時に「さて、芸術とは何だろう?」という問いがふと沸く瞬間に遭遇し、そこで何か思考の変遷をまとめようと思いもしたのだが、頓挫し、そうこうしている間にこの事件が起きたことで、やはりこの問いを見つめてみようというきっかけになった。タイトルに杏果ちゃんの名前を付けたのは、これを書くきっかけとなったかな、という思いも含まれている。ただ、ももクロの話はそれほど多くないので、その話を期待する方には面白くない文章だろうと思う、ということをはじめに述べておく。

 

先日、仕事でベルギーのブリュッセルへ行った。

ブリュッセルといえばEUヨーロッパ連合の本部がある街だが、かといってそんな巨大な街というわけでもない。交通の要所だったからか観光客も含めて人通りは多いが、とても路上も綺麗だし街並みも美しく、昨今の欧州の政治事情からかどこかぴりりとしている雰囲気さえ漂う。そんなブリュッセルの市街を見下ろす「芸術の丘」と呼ばれる小高い丘の上に立つのが、ベルギー王立美術館だ。この美術館がまた地上2階から地下7階まで伸びるヨーロッパを代表する巨大美術館の一つであり、「ブリュッセルに来る機会もそうそう無いわけだし、ここはちょっと寄らないとまずいだろう」と思って、休日に訪れてみたわけだ。

 

たしかに、パリのルーヴル美術館のような、まるで人類の歴史がすべてそこにあるような、「世界最大」と呼ばれることもある美術館に比べてしまえば、展示されている世界観は多少コンパクトなイメージはある。しかし、そこにはルネサンス時代の絵画、食器、キリスト教聖具などから、ルネ・マグリットに代表される現代美術にいたる様々なものがあって非常に面白い。取り立てて、ベルギー美術史はもとより西洋美術史にその名を大きく刻み込まれるベルギー・バロックの代表的な画家、「フランドル派の伝統の到達点でありその最も偉大な代表者」とも言われるルーベンスの絵画には、その美とスケールの大きさから畏怖の念に包まれ身震いさえした。

 

その絵画の単純な大きさや描かれる情景の勢い、劇的な表現、陰影の演出、人々の表情、写実性といったものの、それも見事なのだが、それらを遙か彼方上方からすべてを包み込むように降臨してくる、見る者又そこにいる何者をもを無にさえ還す、眩い光の世界にこそその凄さの核があるように感じる。ちょうど、「フランダースの犬」の物語のラストで、ネロがアントワープ大聖堂にあるルーベンスの絵画を見て息絶える瞬間のような。

 

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(ピーテル・パウルルーベンス/「Assumption of virgin(聖母被昇天)」)

Assumption of Virgin, 1616 - Peter Paul Rubens - WikiArt.org

 

神はその絵の中にいる。


直感へ訴えかけられてくる。そういえばルーベンスだけでなく、一時代古くなるラファエロの絵画や、さらに後の時代になるドラクロワの作品であったとしても、それをじっと見ている時間軸の中に「神の存在に対する圧倒的な確信」が芽生える瞬間がある。その瞬間というものは、実のところ音楽を聴いていた瞬間に感じるものとは強さの面で全くに異なる。それがバッハのマタイ受難曲であったとしても、あるいはモーツァルトのレクイエム、あるいはオリヴィエ・メシアン、あるいはクシシュトフ・ペンデレツキであったとしても。

 

なぜこのような違いを感じるのだろうか。我々は聴覚から入る情報よりも視覚から入る情報量を圧倒的に「多く」感じる生物であるから、結局的に絵画によって感じる霊感は自ずと強くなってしまう、そうであれば「絵画美術は音楽より優れている」のだろうか?もしそうであるならば、では、そもそも芸術とは何か。

 

この問いについて、一つの解を次の言葉から模索する。


「あらゆる芸術は音楽の状態を憧れる」


19世紀英国ヴィクトリア朝時代の著名な文筆家、批評家であるウォルター・ペイターが著書「ルネサンス」の中に記した言葉である。少し、この著書からの言葉を抜き出してみようと思う。曰く、

「各芸術の感覚的内容は、他の芸術の形には翻訳不可能な特殊な美の相あるいは性質をもたらし、劃然(かくぜん)と種類の異なる印象を作り出す、という原理を明確に把握することこそ、すべての本当の美的批評の第一歩となるのである。(中略)おのおのの芸術は、独特の翻訳不可能な感覚的魅力をもち、想像にはたらきかけるのにもそれぞれ特殊な方式をもち、題材に対してもそれぞれ特殊な責務を持っていることになる。批評の一つの機能は、これらの限界を規定することである。(中略)音楽においては、音楽的魅力、すなわち音楽をわれわれに伝える特定の形式とは無縁な言葉を少しも前面に押し出すことのない、音楽の本質に注目することである。」
(ウォルター・ペイター「ルネサンス」別宮貞徳訳、中央公論新社より)


「他の芸術の形には翻訳不可能」とは詰まるところ、それが例え文学的であろうとも言語表現では代替ができないことを含意してくる。20世紀を代表する作曲家であるイーゴリ・ストラヴィンスキーの言葉「音楽は音楽以外の何ものも表現しない」は、こういう文脈をも想起させる。すなわち言葉で表現している内側に音楽の真の美しさは決して表れてこないのである、と言ってしまった瞬間にいろいろな事を放棄してしまうようにさえ思えてくる。ただ、芸術とは何だろう、と考えてみる試行の中でこの示唆はきわめて重要だろう。表現者でも分析者でも批評家でもない人間が書くモノに、少しは「重み」を持たせるためには、この示唆を喉に詰め込んだ上で次の言葉を発する必要もあるのではないかと思う。


話の筋からはズレるが、このペイターの言葉の意味する芸術には科学技術の内に秘められる美が含まれているように思う。近年はフラクタルのように数理論理を視覚的に表現して美とする指向がなくはないが、しかし数理科学の本質的な美はやはり数式や論理そのものの中にあるのであり、その美しさを言葉で表現することは実に難しいなと思っていた事をふと、この言葉から思い出した。

 

閑話休題。続いて、再びペイター曰く、

「何となれば、(音楽以外の)すべての芸術にあっては、内容[題材]と形式を区別することが可能で、悟性はいつでもこの区別をなしうるのであるが、それを消そうとするところに、芸術は不断の努力を注いでいる。(中略)この芸術の理想、この内容と形式の完全な一致が申し分なく実現されているのは、音楽芸術である。至上の瞬間においては音楽では目的と手段、形式と内容、主題と表現の区別がつかない。それらは互いにかかわりあい、完全に飽和しあっている。それゆえに、すべての芸術は音楽-その完全な瞬間の状態を絶えず志向するものと想像される。」
(同)

 

ゴジラ」の音楽で有名な伊福部昭は著書の中で同じことを次のように例示してみせている。

「もしフランスの作曲家が、日本の在来ある旋律を主題、すなわち素材としたとしましょう。この場合、この作品の国籍を聴き分けることはかなり困難となるのです。これは採用された主題が、素材なのか表現の一部なのかということが、音楽にあっては極めて錯雑しているからなのです。」
伊福部昭「音楽入門」、角川文庫より)


「何が表現されているか」と「どのように表現されているか」との間に剥離不可能性が高ければ高いほど、人間は悟性ではなくより感性に近い部分でそれを感受する。悟性の動き、知性による対象に対する理解の動きが「機能しない領域」での心への突き刺さりこそが、芸術の芸術たる要素、美の美たる要素なのではないか。それを完全に実現しているものこそが、音楽なのである、と、そう見えてくる。つまり、「神の存在に対する圧倒的確信」はどちらかというと悟性の働きによるものであり、それに対して、芸術の芸術たるべき相とはそれを超えたところにあるのである、という答えらしきものが見えてくるのである。


悟性の機能しない、より感性的な知覚領域へ近づいてモノを感じる方法として、ごく最近個人的に流行っていることがある。それは「匂い」に置き換えることである。

 

「犬と小供が去ったあと、広い若葉の園は再び故の静かさに帰った。そうして我々は沈黙に鎖ざされた人のようにしばらく動かずにいた。うるわしい空の色がその時次第に光を失って来た。眼の前にある樹は大概楓であったが、その枝に滴るように吹いた軽い緑の若葉が、段々暗くなって行くように思われた。遠い往来を荷車を引いて行く響きがごろごろと聞こえた。私はそれを村の男が植木か何かを載せて縁日へでも出掛けるものと想像した。」
夏目漱石「こころ」より)


想像の内側にその風景に流れる「匂い」が入り込んでくる。同じように、絵画を見たり、音楽を聴いたりした時に、耳や目に入り込む瞬間と、何がどのように表現されているかの理解との間で「どのような匂いがそこに流れているか」を感じ取ること、これによってその世界へ自分を浸透させることができる。文学、絵画はもとより、彫刻陶芸、音楽、果ては美術刀剣においてもこれは通ずると確信する。

 

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本阿弥光悦・作/白楽茶碗・銘「不二山」(国宝))

本阿弥光悦「白楽茶碗 銘不二山」 | 骨董品LAB|骨董品、美術品、アンティーク等

陶芸品であってもその景色に流れる空気の香りを感じ取ることができる。

 

音楽ではたまに、曲の持つ匂いと演奏が持つ匂いが乖離することがある。シベリウス作品のようにフィンランドの気候をたっぷりと含んだ楽曲を、南アジア地域のようなモンスーン気候の匂いを前面に押し出して演奏されるのは、強い違和感を感じる、といったことさえある。そこにはいわゆるピッチなどといった表面的な技術上の上手い下手は関係しない。

 

時には、非人間的なほどに極端に精緻に風景が描かれていることで、その匂いがはっきりと想像できる、といったことがある。絵画であれば一つは写実性であり光と影への演出であり遠近であり、音楽であればピッチであり縦の線であり、またごくごく細かいアーティキュレーションであったりする。ただ、それは精緻であれば良いというものでもなく、例えば大きなエネルギーによる衝撃や、あるいは極端に強い、弱い人間精神の表現などにおいては、むしろ不精緻さこそがその内容を忠実に物語る上での重要な表現要素となり得る場合がある。無論緻密性の持つ価値そのものを否定するつもりもないが、だがしかし実のところ、作品の表現上の技巧的精密さといわゆる「芸術性」に直接的な関係はない。

 

1976年、当時89歳のピアニスト、アルトゥール・ルービンシュタインが指揮者ズービン・メータ、イスラエルフィルハーモニー管弦楽団と共に録音したブラームスのピアノ協奏曲第1番がある。20世紀の巨匠の最後の録音である。「精巧か?」と問われれば、「いやもっと精巧な演奏はあるだろう」と答えるが、「圧倒的か?」と問われれば、「これほど圧倒的な演奏はまずないだろう」と答えよう。

 

人間がその悟性の及ばない領域で芸術作品に感動をするには、むしろ精緻さとは違う軸での「芸術性」の評価が必要である。その一つの軸が僕個人では「匂い」なのである。

 

そういった文脈において、有安杏果の音楽は「美しい匂い」を感じる音楽だった。


芸術の、本当に魅力的な所の一つは、「人間的でなくなる瞬間」の存在であると思っている。何年も時間をかけて、無数の視覚作品、音楽を見て聞いていくと、時にその「芸術性」という指標の中に、表現者や鑑賞者の中の瞬間的な内的問題や表現の場における周囲環境などの外的問題において偶発的な要素も相まってさらに一段昇華されてくる作品の存在に気づく。非常に稀なことだが、こういった作品との対峙においては、「これは人間がその手で作っただけでは得られない世界なのではないか、神がそこに降臨したのではないか」と思えてくる。その時に芸術作品の中に人間的でなくなる瞬間が見えるのだ。これが見えるからこそ美は恐ろしい。

 

ただ、我々はよく知っているのだ、良い人間が良い作品を作るわけでもなければ、悪い人間が醜悪な作品を作るわけでもないということを。ゴッホの作品を見てそれに感動するが、後でゴッホが自身の耳を自分でそぎ落とした事件を知ると、なんと作者のことを知らなかったのだろうと、唖然とする。同じような事は多々言える。その最たるはワーグナーではなかろうか。「彼の作品の評価をするには、彼の著書の事はすべて忘れなければならない」とはよく言われたものだ。その悪名高き著書を差し引いても、ワーグナーの音楽の美しさはその光を失わない。

 

もし鑑賞者が作者のことをよく知っている、あるいは知らないといけない、と考えるのであれば、それは誤りである。芸術の核心はそこには存在しない。

 

美は、ただ美として存在しているのであり、それは人間としての作者と切り離しても、永遠に存在し続けることができる。


冒頭記述の通り、ももクロ有安杏果が卒業した衝撃でこのブログを書き始めたが、結論としてはここにある。卒業を知った時に、なんと彼女のことを知らなかったのだろう、と思い知らされたわけだし、だからこそ今この瞬間から先未来に向けての有安杏果という存在に対する何らの期待をも、実のところまた空虚きわまりなく(彼女のことを知らないのだから!)、また、そのことと彼女の生み出した作品の美しさは切り離すことができ、そして、その切り離された作品の美しさは永久に残り、末永く感受することができるのである。

 

今改めて思うが、僕がももクロの存在に惹かれたのは、こういったファインアート的な検討に耐えうる存在であったからなんだろうな、と思う。

茶碗の中の宇宙

茶碗の中の宇宙

茶碗の中の宇宙〜楽家一子相伝の芸術
東京国立近代美術館


あぁ、陰翳礼讃の文化は今ここで終わったのだな。

と、なんだかそう感じた。

いや、そもそも谷崎潤一郎は随筆「陰翳礼讃」の中で、電気というものの普及によって消えゆく美の姿を惜しみ、しかしその贖えない世相の流れを汲み「愚痴でしかない」と何度か述べているわけで、それは諦念の中にひっそりとしのばせる類の物なのかもしれないが。

といって、その谷崎潤一郎は「陶器ではだめだ、漆器でなくては和食の良さは生み出されない」とまで述べているから、陶器としての茶碗の世界から見れば宿敵という扱いをされても致し方ない。
まったく、魯山人はこれをなんと思ったのだろうか。


楽茶碗の世界。

展示は初代長次郎から二代常慶、三代道入(ノンコウ)、と一人ずつその作品を現代の姿に至るまで見ていく旅だ。少し進む度に長次郎に戻ってみると、長次郎の何が凄いかが立体的に浮かび上がってくる。

長次郎碗の展示も他の時代に比べると暗く、というか時代を追うごとにどんどんと明るくなっていき、最後はどうにもギラギラとしてくるのだが、「はじめの時代」の照明は実によく陰翳の世界を生み出してくれている。侘び茶ここにあり、とでも言いたげである。

仄かな明るさが、ある方向からひっそりと当たり、深い影の世界を作り出している。長次郎碗のその小さいながらも朴訥とした佇まい、内省的世界から生み出される「影」の世界は、それはそれですさまじい精神的な鋭さを兼ね備えており、まさに日本が誇るキアロスクーロなる世界の頂点が、そこに居るのだ。影が、とんでもなく美しい。

 

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初代 長次郎《黒樂茶碗 銘 大黒》
文化庁広報誌「ぶんかる」より

http://www.bunka.go.jp/prmagazine/rensai/diary/diary_032.html


俗に、茶碗は「一井戸ニ楽三唐津」と言われているが、私個人としは楽茶碗のそれも黒楽茶碗の持つ、何者をも飲み込む黒、墨黒でも鋼黒でもない、世界の深淵と世界の始まりを持つ「引き出し黒」と言われる土の黒の世界がどうにも好きで。本阿弥光悦がそれに取り付かれ、そして尾形乾山へと繋がっていく日本の陶器史における重要なマイルストーンとなり得たことも、その楽茶碗の語らう無言の深さを思想すればこそ、まったくもって至極当然であり、感嘆とする。今回、長次郎碗を改めてまじまじと見て、あぁ、これが好きなんだな、と再認識したわけだ。

勿論、ノンコウ碗も実に渋くて良い。ただ、最早ノンコウ碗でも長次郎碗と違った方向性の「強さ」を感じる。その世界は哲学的というよりは美的好奇感覚のほうが強いようにさえ思う。長次郎碗の深淵さに比べてしまえば、刷毛目が一本入っただけで、それが持つ陰翳の世界はガラリとその姿を変えてくる。景色が鮮やかになるほどに、目はそちらの風景の持つ詩的世界への理解へと動き、自己への顧みを促す内省的な深淵さは遠去かってゆく。例えれば、ノンコウ碗「鵺(ぬえ)」でさえも、その詩情が語りかけてくるわけであり、どこまでも清寂な長次郎の碗とはどこか異質な世界が繰り広げられている。

 

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三代 道入/のんこう《赤楽茶碗 銘 鵺》
文化遺産オンラインより

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/278173


八代得入の碗くらいまではそれでもノンコウ碗のような内省的な思考の表現があったわけだが、しかし近代碗、現代碗はどうにも個人的にしっくりとこない。明るい。「ギラギラする」。十一代慶入、十二代弘入の碗あたりから20世紀の作陶は自らの主張をどんどんと強くしてゆく。金属成分だろうか、ところどころに金銀のたらし込みによる光の輝きを持つ。それはそれで、工業的な世界の良し悪し、あるいは自然観の何かしらを表現しているのだろうが、しかし私にはどうにも眩しすぎる。

 

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十一代 慶入《赤楽茶碗 碌々斎書付》
樂美術館ホームページより

http://www.raku-yaki.or.jp/museum/collection/collection_12.html

 
この光沢感が、天目か、織部碗であったならば、まだ受け入れられたかもしれない。

私は時々思うのだ、現代美術は「ものを多く語りすぎる」。たとえたった一色でキャンバスを塗っただけの絵画作品だとしても、作品は語りかけてくる。「この一色の絵はこういう情景を描いたものであり、それは人間の心理がこうであって、しかしその心理を生み出した社会背景はこうであり」云々。他方で、古き良きものが語りかけてくるものは非常に少ない。例えばヴィルヘルム・ハンマースホイの絵画のように静けさが支配する世界だからこそ、最も繊細なもの、小さきものの発する音、声は見る者の心へと語りかけてくる。

現代美術の多くは、社会的なもの、世界的なものについて語ることはあっても、個人的な問題に語りかけてくるものは少なくなった。

楽焼は一子相伝ながらも、作り方を厳密に守るわけではなく、その時代に合わせた作風へと「進化」することにその流派としての本質がある、という。ならば、その進化の結果がそこまでと煌々とした騒然とした世界であるというのは、現代世界自体が持つ特筆すべき性格なのかもしれない。

吉左衛門氏が芸術新潮の記事に語っていたように、もはや現代の茶において軽々しく茶を禅の世界の言葉で解説しようなどというのは、良策ではない。しかし現代世界の表層の端的な概観がそのようにビジーな世界であるならば、もはや陰翳礼讃は死に絶えたと考えるのが妥当であろう。特に「日本の芸術世界」に於いてそれが為されたことは大きい。

しかし、谷崎潤一郎は100年も前にこの衝撃を体現したのだろうか。

 

私立恵比寿中学

アイドルグループは大体、他のアイドルグループと比較される。「あっちはあぁだけど、こっちはこうだよね」みたいな。売れてる売れてないや、規模の大小、メジャーデビューしているしていないに関わらず。

本格的に「その人のファン」「そのグループのファン」であればあるほど比べられるのは嫌がる、「比較してマシなのを選んだ訳じゃない」と。マシだから選んだのではなく、心に刺さったものがあったから、ファンでありたい、推したいと思ったのだ。

私立恵比寿中学(以下、エビ中)はももいろクローバーZ(以下、ももクロ)の妹分グループである。

こういう紹介のされ方は間違ってはいないのだが、なんだか比較されてるようで、あるいは太陽の影でコッソリ活動しているみたいな感じがして、やっぱりどこか抵抗感がある。ただ、世間一般の「いわゆるアイドルというものに興味のない」層に対して解説をするならば、この選択をとらざるを得ないだろう、とも思うわけだ。


ももクロ、国立競技場ライブ映像作品のコメンタリーで、あるスタッフがこういう事を話していた。

「アイドルのライブは総合芸術だ。」

つまり、音響があって、照明があって、大道具のセットがあって、細かい小道具や特殊効果があって、衣装があって、衣装にはちょっとした髪飾りから手袋、ブレスレットの類のアクセサリー、靴に至るまでいろんなものが含まれていて、ヘアメイクがあって、楽曲があって、場合によってはバンドが入って、歌があって、ダンスがある。MCも、お客さんのために用意された何かしらのコーナーも、その場で突発的にやっているわけではもちろんなく、いろいろと練られてきたものが披露される。

あらゆる視覚的聴覚的芸術的要素を問われる。だから総合芸術なのだ。
クリエイターに近しい感覚を持つ人がそれを見れば、その細部へのこだわりと作り込みのされ方に感嘆することだろう。

アイドルは「歌」や「ダンス」といった特定の分野のスペシャリストではなく、とにかく総合力を問われるジェネラリストのスペシャリストだ。しかしその本質は他の分野の表現者とそう大きくは変わらない。

これにはももクロだから、エビ中だから、という違いはない。


エビ中。8人組アイドルグループ。ももクロの妹分。
妹分といっても、ももクロは2008年結成でエビ中が2009年結成。その下のチームしゃちほこが2011年結成。さらに持ち曲数(リリースされている曲数)もももクロが合計170曲くらいに対して、エビ中は140曲程度。チームしゃちほこが70曲くらい(以上2017年2月時点)だから、ほとんどももクロと変わらないくらいのキャリアがある。

曲が多いということは、それだけ表現できる世界観の幅が広いという意味に直結していて、だからエビ中のライブも毎回面白い。

2016年9月にリリースした最新シングル「まっすぐ」も、聞けば聞くほどいい曲だなぁ、と思う。一方で「夏だぜジョニー」 のようなワチャワチャした極みのような曲があり、一方で「アンコールの恋」のような切ない恋心の曲があり、さらに「金八DANCE MUSIC」のようなコメディ曲あるいはネタ曲があり、さらに「いい湯かな」のような家族を想う曲があり、「禁断のカルマ」のようなファンタジー観の強い曲があり、様々だ。

 

私立恵比寿中学「夏だぜジョニー」

https://youtu.be/csJzMzMFiPE

私立恵比寿中学「禁断のカルマ」

https://youtu.be/1Ummhp5G03g

私立恵比寿中学「手をつなごう」

https://youtu.be/68WSrqdaoGU


ももクロと違う点は何か。完全に個人的な印象だが、ももクロは開拓者魂に満ち溢れていて、道なき道をガツガツと鉈を振りまわしながら、あらゆる変幻自在のカードを駆使して進んでゆく。相手のパーソナルスペースにも知らぬ間に入り込んでいて、ガシッと心掴んでいく。

対してエビ中は全体的に平和主義。争いを好まず、「人を思う」という事に特に敏感で、なので相手を思いすぎるが故にメンバーほぼ全員人見知りで、あまりファンの側にもアタックをかけてくるような事はしない。エビ中と一緒に仕事をした人たちは口々に「最初はクールで無口な人だと思った」みたいなコメントを残している。

2014年に旧メンバー3人が卒業する時はずっと泣き続けた最年長の真山りか。その後まだ中学生で不安感いっぱいでエビ中に新しく入った小林歌穂、中山莉子(カホリコ)に、「エビ中に入ってくれてありがとう」と言葉を、何度も掛け続けた安本彩花。深いぬくもりとガラスのような傷付きやすさの両方を内に持ったグループだと思う。

エビ中チーフマネジャー藤井さん(校長)はこう言う、「アイドルグループとして永遠の可能性を持っているのはももクロだけ」。いつかは卒業や解散をするアイドルグループなのであれば、その後もしっかりと「芸能人」として仕事を受けて、食べていけるようなある程度の下地をアイドルグループ活動の中に作っていかないといけない。

だからこそ、エビ中はソロ活動が多い。

タモリ倶楽部電車特集に度々登場する廣田あいか。アニソンを複数ソロでリリースしている真山。主演を含む複数の映画に単独で出演経験もある柏木ひなたNHK Eテレに一人出続けている安本。秋田ローカルラジオに自分の番組を持つ小林。深夜テレビ番組でMCをしていた星名美怜。モデルとしての複数の雑誌上で定期的に登場している中山、そして松野莉奈

ももクロより全然多い。


これが実際にできるのは個々人の技量の為せる技であり、だからこそエビ中には「主要メンバー」や「センター」といったものはない。全員がそれぞれ個が立っていて、全員が主要メンバーだ。

俯瞰的に見ると、ももクロのほうが全く突然変異型モンスターであり、エビ中のほうがむしろ王道アイドルのように見える。どっちのほうが良いということはない。
どちらも違う面白い側面をもっていて、どちらも大変魅力的で、それはまるで車の両輪のように絶妙なバランスで走り続けている。いや、むしろエビ中のほうが「寄り添っていたい」と思わせるグループといっていい。

前出の「まっすぐ」もまさにエビ中らしい、まっすぐな曲だ。

 

私立恵比寿中学「まっすぐ」

https://youtu.be/gvBdo0Pm5tI


ただ、そんなエビ中だからこそ、むしろ「奇をてらう」こと「大きな変化を起こす」ことには不慣れだ。

エビ中の存在はその前から知っていたし映像も見ていたが、一気に興味が湧いたのは2014年の武道館ライブ「合同出発式」の、特に安本彩花の「またあえるかな」を見た時からだ。まっすぐに、卒業する3人を想って歌ったこの歌には大きく心を揺さぶられた。

それから、何度かライブを見ているが、個々の技量の深さが分かるだけに、もっと違う物が見れるんじゃないかなぁ、というもどかしい気持ちがいつもついて回ってきた。柏木ひなた廣田あいかという歌に定評のあるメンバーを有するが故に、特に。エビ中としてさらに飛躍するには、もう一皮剥けることが必要なのではないかな、と。

その印象に対する答えも、エビ中は模索していたように思う。2016年4月にリリースしたアルバム「穴空(あなあき)」はエビ中にしてはかなり異色で実験色の強い作品だった。「俺たちぜってーアナーキー」と叫ぶ、ユニコーンのABEDONさんによる楽曲「ゼッテーアナーキー」は結構振り切ってみたな、と思う。ただ、「まっすぐ」を聞くに、違う方向も見始めたようだが、しかしエビ中としての芯はブレなかったようだ。

2016年年末のエビ中大学芸会「オーシャンズガイド」(1年の締めくくりライブ)はとても良かった。今までにないほど「もどかしさ」のないライブだった。新旧楽曲のバランス、BPMだけでなく曲想としても緩急のあるセトリ、世界観を丁寧に表現した舞台空間。「まっすぐ」でぶわっとなったところからの、岡崎体育「サドンデス」で盛り上がり、HERE尾形回帰「モラトリアム中学生」の骨太のロックの中に切なさに満ちた曲で本編を締める。そしてエビ中の歴史に刻み込まれてきた楽曲、前山田健一「永遠に中学生」でアンコールを締める。いいライブだった。「これが小慣れてきたら、もっともっと上に行くんだろうなぁ」そんな感じさえ持っていた。エビ中の進む未来が、ぼんやりとその姿を現しだした、そんな瞬間を見たライブだった。

年が明けて6人いる高校生メンバーのうち松野莉奈を含む4人が今年高校を卒業し、いよいよこれから活動の幅もより広がるだろう。未来は明るいだろうと思った。

その矢先だった。

 


僕はその先に繋げる言葉を見つけられていない。

ただ、ただ、「こんなこと、あってたまるもんか」という言葉だけが、頭の中を駆け回っている。

 

りななん、永遠に。

 

松野莉奈「できるかな」

 https://youtu.be/f0I4_rWHUnc

 

伶楽舎/武満徹「秋庭歌一具」

2016/11/30 伶楽舎第十三回雅楽演奏会

芝祐靖「露台乱舞」
武満徹秋庭歌一具

ダンス 勅使河原三郎

 
紀尾井だったり初台だったり、過去何回か雅楽を見に来ているのだが、東京楽所と伶楽舎の違いなのか、「あれ?雅楽ってこんな感じだっけ?」とふと思う。いや、過去にも伶楽舎の演目は見てるはずだが。

 何より、2006年にオーケストラ・アンサンブル金沢東京公演で東京楽所と披露した石井眞木の「声明交響II」で見た荘厳な雅楽の印象が強いのだが、今日見た雅楽はどちらかというと「ファンキー」という言葉のイメージが近く、随分と荘厳とは対極な雰囲気の雅楽を見たなぁ、という印象。そして、雅楽の幅広さと奥深さを知ったようでもある。
 
観客に20代くらいの若人が多い。いささか謎だったが、これはコンテンポラリーダンスの第一人者勅使河原氏との共演が理由か。それでこのファンキーな雅楽とコラボして「魅せる」というのは、企画者の辣腕を見せつけられた感じもある。前述したような雅楽の「荘厳」を求めて来た方には、違和感のある公演だったかもしれないが。
 
芝祐靖のほうは、彼の時代の「うたげ」を再現した形。導入の「うた」から閉宴の「うた」に至る、一つの宴。照明も白びた朝焼けから、昼間の緑の映え、そして橙から紅、漆黒へと移ろいゆく夕暮れへ、と1日を通して過ぎてゆき、日がな一日続く楽しげな宴の様を映し出す。

うたい、おどり、時に酔っ払いさえも出現するが、その時間感覚はゆったりとしており、酔っ払いが他の演者に絡む様もどこか雅びである。緊張感と和やかさが同居していて、なんだか心地良い。

 儀式的な感じは全くといっていいほどに、ない。

 

 武満徹

 宮内庁式部職楽部の演奏を擦り減るほど聞いていたけども、「あれ?秋庭歌ってこんな音楽だったっけ?」と思ったのが第一印象。悉くCDで聞いていた内容と違う。

 舞台上の管弦と2階客席3方に分かれた管楽が、お互いにその響きを木霊してゆく。悠久の響きという感じは、ほとんどない。その響きは実にコンテンポラリーであって、CDで体験できなかった音空間がそこに繰り広げられている。

たまに聞いた事のある旋律が耳に入ってくるものの、それ以外はがっつり現代音楽らしい、複雑怪奇さが匂ってくる音楽。この曲にはそんな印象は今まで持っていなかったのだが、それが武満の意図だったのか演出によるものだったのか、そこからよく分からなくなる。

 という側面もあったからかもしれないが、勅使河原氏の、ゆっくりとゆったりとしながらも一つ一つの所作、指先の動きまでもがどこまでも美しく、言葉は無いが多くの事を語りかけてくるダンスがあまりにも凄すごて、ただそれを見ているだけではその世界に深く深く引きずり込まれていき、と同時に音楽がますます遠い存在になっていく。見ながら聞く、という作業に実に難しい演目。

 空間的に、ファンキーだ。

 

 雅楽を「儀式的な音楽」という認識だけで見ようとすれば、今日の構成はどちらの曲も違う。むしろ、儀式という括りの中に求められる芸術性よりも、遥かに遠くを目指した芸術性がそこにあるようにも思う。

儀式性を重んじたからこそ、雅楽仏教へも上手く取り込まれてきたわけだし、宮中行事として一千年を優に超える歴史を持つことができたわけで、そこが雅楽としての本流という立ち位置であるのだろうな、と思ってきたわけだ。が。

雅楽という音楽世界の理解を、私は今まで間違って捉えていたのかもしれない。

ピーターラビット展〜ビアトリクス・ポター生誕150周年

@Bunkamura ザ・ミュージアム


イングランド湖水地方の、雄大だけど静かでのどかな大自然と田舎暮らしの中にあって、その畑や森で暮らすウサギやリス、ネズミたちの小さな冒険の世界。

展覧会の中でその物語の1つ1つが丁寧に説明されていたこともあってか、会場全体がピーターラビットの世界の草木がそよめくような風が吹き、その香りさえ漂ってきそうな雰囲気で、とても心地よい。

 

ビアトリクス・ポターの絵を挿絵ではなく絵画として見る機会はなかなか貴重だろう。そして、どうしても印刷物だと色彩のコントラストが強めに出てしまうが、実際の原画はもっと柔らかい日差しが差し込んでいて、さながらカミーユピサロの描く印象派の風景画でも見ているようである。

 

博物学に興味持ち、死んだウサギを解剖して骨格を調べたポターらしく、描かれたどの動物たちも、キャラクターでありながら変にデフォルメされすぎない。絵の中のウサギだが触ればふんわりと毛並みが柔らかく、血の通ったいきものの温もりや、お尻のふんわりずっしりした感じ、息使いによるお腹の動きさえ感じられそうなリアリティがある。なでれば鼻をひくひくしそうな!そこが、いわゆるマンガキャラクターとは違う。実にかわいい。

小動物としての温もりや柔らかさを残しながら、しかも解剖学的にそこまで「変じゃない」動きを残しながら、ある時はホクホクとにんじんをほうばり、ある時は捕まりそうになって涙を流して泣く。そこに、ポター自身の並々ならない動物たちへの愛情が垣間見える。

 

そんな動物たちが印象派の風景画のような世界で二本足で立って洋服を着て大冒険するのだから、どこか現実と空想が絶妙に交錯してて、藤子・F・不二雄が描いたSF「すこし、ふしぎ」が、遠い異国の地で100年も前に違う形で実現されてたんだなぁ、と思いを馳せる。

 

日本のキャラクター文化はデフォルメが過ぎる感があるから、そこに食傷している人にとっては逆に新鮮なのかもしれない。


子供たちは、そんなピーター・ラビットの世界に入り込むことで、動物の生態や動物に向けられる愛情、自然保護や、ファンタジーとしてのSF「すこし、ふしぎ」や、印象派風景画の世界や、いろんなことを吸収していくんだろうな。

 

とても心地よい展覧会だった。

 

単独者たちの王国〜めぐりあう響き

サントリー芸術財団サマーフェスティバル2016

ザ・プロデューサー・シリーズ

佐藤紀雄がひらく
〈単独者たちの王国〉〜めぐりあう響き

 

・クロード・ヴィヴィエ「ジパング
・マイケル・トーキー「アジャスタブル・レンチ」
武満徹「群島S.」
リュック・フェラーリ「ソシエテII〜そしてもしピアノが女体だったら」
・(アンコール)武満徹「波の盆 - 第1曲」

 

佐藤紀雄 指揮
アンサンブル・ノマド

 

20世紀というドビュッシーからシュトックハウゼンまでいた激動の音楽史の中で、作曲技法における主義のコンテキストから一歩はずれ、自らの信念によって自らのの美的世界を独自に生み出した「単独者」たちの饗宴。

 

今日の演奏に、「芸術」という無限に壮大なものの中の、最も奥深い本質を垣間見たような気がした。


ヴィヴィエ「ジパング」。
弦楽合奏だが多彩なボウイングを駆使することで、その音色の幅が豊かになる。しかして、その音は全体的にどこかドライであったように思えたのは席のせいか、曲のデザインゆえか。それはどうにもまるで月夜の砂漠のような印象でもあり、「ジパング」という名前の不思議にふわっと包まれた。(曲目解説上にも詳しい由来はなかった。)

 

トーキーの「アジャスタブル・レンチ」。
曲目順でこの位置に最適な、クッションのようなオシャレなお菓子を置いて壮大なメイン料理に備えるような、とにかくポップで可愛らしい感じの音楽。木管楽器がリードする小粋でノリのいい4小節一区切りのリズムに乗せて、様々な楽器が交差し発展しながら音楽が展開していく姿は、さながらミニマルミュージックのような心地良さ。

 

そして、曲順が前後するが、問題のフェラーリの「ソシエテII」。
まずピアニストが蛍光イエローのポロシャツ、ハーフパンツ、スニーカーというランニングウェアで登場したところから、何やら不穏な雰囲気。打楽器ソロ3人も動きやすい格好ではあったが、打楽器というパートの性格上、それはそれほど違和感はなかった。

 

この音楽の内容はといえば、20世紀中盤に一種流行した無調無拍子の前衛感丸出しの音楽。ピアノは内部奏法やら、腕全体で鍵盤を叩き音をクラスタリングしたり、ピアノの縁を鞭で叩いたりと自由奔放。打楽器も3人がそれぞれ舞台上を楽器や楽譜、マイクを持ちながら縦横無尽に動き回りとにかく叩きまくる。ピアノの中にボンゴを置いて、ボンゴとピアノを同時にマレットやらドラムスティックやらで叩きまくる。かと思えば、打楽器奏者がピアノの前に座っているピアニストを引きずりおろして自らピアノの鍵盤を叩く。弾く、というより叩く。ピアニストはヤケになったか、打楽器を叩き出す。指揮者は演奏の途中で何かを放棄したかのように、指揮台の隣に置かれたソファに座っておもむろに新聞を読み始める。一応背後にオーケストラがいるのだが、この4人の熱量が凄すぎて、聞いた後に「あれ?どんなことやってたっけ?」と思われても致し方ないのかもしれない。もはや「この音楽に楽譜というものは存在するのだろうか?存在する必要性はあるのだろうか?」とさえ思うほどの音の嵐。

 

その音がふっと消え、指揮者は観客に礼をする。観客の拍手と「ブラボー」の叫び。指揮者は舞台袖へ捌ける。かと思えば突如ピアニストがオーケストラに向かってさらにしっちゃかめっちゃかな演奏を再開。指揮者は走って指揮台に戻り、演奏を「止めさせる」。
再び拍手。

 

「呆気にとられる」とはまさにこのこと。

 

目の前に座っておられた女性が演奏中その熱量にやられたようで、終始クスクス笑い続ける。最初怪訝に思っていたが、打楽器奏者がピアニストを引きずりおろしたあたりから、「あぁ、これは狙ってやってるわけだから、笑うのが正解かもしれない」と思えてきた。プロデューサー佐藤氏自身によるプログラム解説にある、「(作曲者は)作品から逃れられない宿命を演奏家にあずけたあと、自分は一歩引いたところで笑みを浮かべて眺めて楽しんでいたに違いない」という言葉をふと思い出し、笑いも含めたところで作曲家の掌の中にいたんだろうな、とさえ思った。

 

人間、思想、哲学、倫理、宗教、国家、政治、戦争、自然、愛、希望、美、憎しみ、卑しみ、醜さ、絶望、死、生…この世の全ての表現対象を遥かに超えてそのずっと奥底の、最も根深いところに「笑い」を置いたことによって、芸術というものの重さと、それに対して表現家のやっていることの軽さを同時に目に見える形で提示したのではないだろうか。


「だかこそ」なのだが、フェラーリの前にやった武満徹の音楽が必要だったのだ。この武満徹の緻密で圧倒的に高い完成度があったからこそ、前述の主張が極めて立体感を帯びてくる。

 

武満の「群島S.」は、5つのグループに分かれたオーケストラが、それぞれに響き合い、さながら「群島」の自然美を醸し出すわけだが、これがとんでもなく美しい。

 

武満の音楽はシベリウスと少し似通ったような雰囲気を個人的に感じていて、それは何かといえば音の数が少なくなればなるほどに澄み渡った美しさがどんどん増していく。少ない音の集合で透き通った大自然を表現してゆくがゆえに、アラが出れば濁りはよく目立つ。

 

「群島S.」はその名の通り、やや短めなフレーズがふとした無音を飛び越えながら繋がっていく。それぞれのフレーズの一つ一つの仕舞い方が濁りなく丁寧であるほど、その無音は美しく光り輝く。そしてそれは実に美しいものであった。客席に別れた2本のクラリネットの響き合い、途中のトランペットソロ、ファゴットソロ、ホルンソロ。どれも美しい。「武満徹の音楽を体験する」ということに対しては十二分な完成度の高い音楽だった。

 

「単独者の王国」、各作品は全くその国籍も時代も作風も方向性も編成さえもバラバラではあったが、こう一通り見終わってみると、最初から最後に至るまで実に自然な流れの中で「芸術とは」という核心へと知らぬ間に徐々に迫っていく、実に意義深い演奏会であった。

 

凄いものを見た。

 

武満徹「ジェモー(双子座)」

サントリーホール30周年記念

 

タン・ドゥン指揮

三ツ橋敬子指揮
東京フィルハーモニー交響楽団

 

武満徹「ジェモー(双子座)」

タン・ドゥン「オーケストラル・シアターII:Re」

武満徹「ウォーター・ドリーミング」

タン・ドゥン「3つの音符の交響詩

 

何故この曲順になったのか、なんならなぜこの曲順に「変更した」のか、少しよく分からない。

 

3つの音符→ウォーター・ドリーミング→ジェモー→Reのほうが個人的にはしっくりきたような気がする。タン・ドゥンは「東洋人は"Less is More(より少ないことによって、より豊かになる)"の感覚を持つ」と語ったが、ならば3つの音から出発し1つの音へと帰着するほうが、流れとして自然なようにも感じる。ちなみに、「Less is More」はミース・ファン・デル・ローエの言葉、というイメージがあるので「東洋人ならば」と言われると個人的にいささか違和感を覚える。

 

武満:ジェモー。
美しい。武満らしい満ちては引く波の、繰り返される訪れのような音の流れの中に、ふんわりと佇みその宇宙と一体化するような感覚。
特にスティーブン・ブライアントのトロンボーンの豊かで暖かく優しい音の、オーケストラへの乗り方が実に心地良い。良い演奏だった。
それと、CDだとどうしても分かりにくい、2群のオーケストラが互いに絡みみあっていく様子を目の前で見れた事もよい収穫だった。と同時にこの曲の主題は「2」。2つの目、2つの耳、2つに分かれた脳が一人の人間を動かす。それを聞くときに、やはり2つの音群の「境目」が感じられないと、この音楽の核心には踏み込めなさそうだな、とも思った。

 

タン・ドゥン:オーケストラル・シアターII:Re。
「観客と一緒に作る」という発想は現代芸術の一種の流行りだが、なかなかこのようなコンサート会場で見かけることは少ない。観客自身も演奏者となるが、さらにアーティキュレーションまで求められたことによって、実に観客に緊張感が要求される音楽だった。
数年前にサントリーホール内でお茶会に参加したジョン・ケージ「ミュジサーカス」を彷彿とさせるこのような「特別な体験」こそが、サントリーサマーフェスティバルの醍醐味だよな、と再認識。
客席各所に散らばった木管奏者たちが、おどろおどろしく「レ」を響かせば、バスが呪文のように意味の無い言葉を繰り返す。それに引き込まれるように観客もまた同じ言葉を唱える。時に二人の指揮者も静寂を求めるような語りを散りばめる。絶妙な緊張感の中、東フィルの演奏は緻密にコントロールされていた。まさに「怪演」。
ただ、音楽の流れの中に「輪廻転生」(或いはresurrection)の流れを明確に感じるかというと、そうでもないわけだが、しかし儀式的な性格が強いために、何やら信心深さを試されているようでもある。新しい宗教でも誕生したか。

 

武満:ウォーター・ドリーミング。
これは少し額縁の中にコンパクトに収められすぎていたか。伸びやかさがもう少し欲しいところ。特にフルートソロ最初のBbにはどこか幼児的性格を纏っていたように聞こえる。もう少し全体的に神話的性格が求められてもいいのではないかな。

 

タン・ドゥン:3つの音符の交響詩
現代音楽にしてはノリノリな、協和音もいっぱい聴ける(謎)楽しい音楽。サントリーホールのお誕生日に相応しい音楽だった。
祝典音楽的に聞こえたのは作曲者の前振りがあったからかもしれないが、であればやっぱりこれが最初でもよかったんじゃないかなぁ。