夢の劇 ー A Dream Play

@KAAT神奈川芸術劇場
(以下ネタバレを含みますのでご注意のほど。)

どのように理解したらいいのか、実は見終わってなお良く分かっていない。

キリスト教音楽の中には受難曲というものがある。すなわち、キリストが死刑宣告を受けてゴルゴダの丘で十字架に磔にされるまでを描いた音楽劇である。
思想上、キリストが罪を背負い磔になったために信者は許しが与えられるようになった、という考えがあるため、受難曲はキリスト教徒にとっては大切な物語だ。その中身は誰も止められない悲劇への行進だが、全てを見終わるとなんとも言えない解放感に包まれる。

この受難曲に似たような混沌の果ての解放感を感じる。ただ、物語の中で苦しむのは神インドラの娘アグネスだけではなく、登場する全員が全員それぞれに苦しみを抱えていて、見終わった後も明確な答えを得たような気分にはなれない。そこはどこか仏教思想或いは密教に近い考えの流入を見てとれて、極めて客観的に見て面白い。東洋的と西洋的が見事に渾然一体となっている。(だが、空間美術や音楽そのものは、どこでもない世界観ながら東洋的というよりは西洋的に寄っていたようにも思う。)

しかしだからこそ、アグネスが物語の最後に綺麗に纏め上げようとしても、それまでに見てきた苦しみが大きすぎて、全て背負うことはできないままになる。後で振り返ってみれば、それを消化せねばならないのはアグネスではなくて「一般市民たち」に他ならない。断っておくが、女優早見あかりの力量でそう見えたわけではなく、この物語の中では「それしかあり得ない」。

プログラム上の解説とは異なるのだが、その背負いきれない苦しみをなんとか纏めようとして、明確な答えのある綺麗な纏りを紡げないままに死の時を迎える、というアグネスこそが実は一般市民であり詩人でありストリンドベリの化身だったのではないだろうか。人はみな、解決できない問題を背負ったまま、それでも憎むべきものも愛おしいと言って死ぬのではないか。

話を元に戻して、劇のタイトルは「夢の劇」だが、果たして「誰の」夢の劇なのか。

自らの言葉に真実を夢想する詩人の夢なのか、いやこれはインドラ自身が悩める人間の姿を具現化するために見た夢か。あるいは、ストリンドベリ自身が詩人を含めた悩める人間の姿を神へ託して救いを請うために見た夢、ともとれる。

難解な物語だ。それは恐らく私がプログラム解説と異なる印象を得ているのと同様に、見た人ごとに伝わったものが違う可能性があるからか。そういった意味では見る前に期待したカタルシスとは異なるものを見た人も多かろう。

しかしこの劇は語るのだ、「それこそが人生だ」と。

新日本フィル、ブリテン「戦争レクイエム」

ダニエル・ハーディング指揮
すみだトリフォニー定期
ベンジャミン・ブリテン「戦争レクイエム」


「私は罪ある者として嘆き、
罪を恥じて顔が赫らむ
乞い願う者を憐れみたまえ、神よ。」


私は新日本フィルに讃辞を送りたい。
彼らの「戦争」という芸術は、観客がもたらした冷ややかな反応と共に、完成を見たからだ。
インスタレーションだった、といってもいい。

戦争を題材とした作品は、ベートーヴェンの「ウェリントンの勝利」を始め古今東西数多存在する。チャイコフスキーの「祝典大序曲1812年」や、ヴェルディの「アイーダ」といった超有名作品と比べれば、ブリテンの「戦争レクイエム」は知る人ぞ知る名曲でありながら、しかしマイナー作品の部類とも言えよう。

とはいえ、実際会場に行ってみれば意外と入っている。
戦争レクイエムもメジャー作品になったもんだ、とも思った。


しかしどうだろう。
私は演奏中、右と左と後ろの3方向からのイビキに囲まれて、戦争レクイエムを聞き、見た。
長らく新日本フィルの定期会員を続けているが、こんなことは初めての経験である。

バリトンが「わたしの焼けつく心は、痛みに縮み上がっている。これこそが死です。」と歌うのを、イビキと共に聴いたのである。
それ以外にも、ずっと後ろのほうからビニール袋のくしゃくしゃとした音が響くし、2階からチラシが落ちてくるし、一体全体何なんだ、と。

そうか、ここの会場には「戦争」という「ファッション」に釣られてやってきた人が、それなりに多いのか。しかし、そういうファッションを生み出した元凶は何かといえば、昨今の「戦争」ということばの流行である。
ここで僕は政治的な話を持ち出す気はない。「戦争」という「ことばの流行」をもたらせたのは、ひとつには安保法案関連の賛成派反対派双方の影響である。しかしそれは、「単なることばの流行」に過ぎない。彼らは、「戦争」ということばの意味を消し去り、価値だけをもたらしたのだ。言い方を変えれば、そこに箱がある、箱には「戦争」と書かれているが、中身が何かは分からない、そんなただの箱に中身が何かも分からないまま、賛成だ反対だと騒ぎ立てている餓鬼達の狂乱である。
実はその箱を開いてみれば中には鏡が入っており自分たちの顔が映し出されるのではないか、とさえ思う。それは人種や思想ではなく、「私の思想は常に正しく、私の思想に相容れない相手には、その道を正さねばならない」という心である。

それでも戦争はなくならない、人間が人間であるかぎり。
その訳は、「正しくありたい」という心があるからではないだろうか。

戦争レクイエムは、レクイエムと銘打っており曲の構成もミサに準じてはいるが、その中身は宗教性のそれほど高くはない戦争詩であり、イギリス音楽らしい霧がかった、しかしどこかリアルな矛盾を含んだ音楽物語である。

演奏家が如何に「戦争」ということばの「意味」を詩にして悲痛な叫びと共に、あるいは深い慈愛と共に歌いあげたとしても、それは大勢のイビキと共に流される。それが実に現代社会の縮図を表しているようで、そういう意味で、観客の冷ややかな反応と合わさったところで見事にインスタレーション芸術としての完成した姿を見たのだ。

恐らく、新日本フィルがこのプログラムを組んだ時、そのような社会情勢の変化まで汲み取れてはいなかっただろう。ならば、今日の日の芸術的完成は、偶然の産物である。ただ、その偶然の産物に実際に傷ついたのは新日本フィル側だったのかもしれない。

それは実に美しい芸術であった。
人間の醜さを露わにした、美しさである。

ハンヌ・リントゥ指揮、フィンランド放送交響楽団

・ヴァイオリン協奏曲(Vn:諏訪内晶子
交響曲第2番
・(アンコール)組曲ベルシャザール王の饗宴」より「ノクターン
・(アンコール)組曲「レミンカイネン」より「レミンカイネンの帰郷」

描き方によって、音楽にもたらされる光というものも十人十色である。

シベリウスといえば「透明感のある輝き(光沢)をもった音楽」というイメージがある。アイスランド響の音楽なんか、そっちだろう。今日の演奏を聴いていたら、ラハティ響でさえそちらかもしれない、とさえ思った。

がしかし、今日の音楽は少し違った。光ある音楽であったが、しかしそれは煌めきというよりは穏やかな日差しが森に注ぎ込むような、ふんわりと差し込む光の中に、木とつとした、木質な柔らかい質感を持った音楽であった。決してテカテカしたようなものではない。

熱量はあったが(ハンヌ・リントゥ氏の指揮っぷりからして)、それでも前出の柔らかさの籠った音楽だった。出だしの金管からして「硬い」、そしてその民族色の「強い」音楽になりがちな曲ではあるが、今日見た姿はそうではなかった。いや、むしろこちらこそが「シベリウスの音楽」という立ち位置から言えば本来の姿なのかもしれない。

ヴァイオリン協奏曲
偉大なるシンフォニストの作った協奏曲は、オーケストラもまた素晴らしい。ただ、その偉大さ故に、ソリストにはオーケストラに負けない力量を求められる。この曲が至難の一曲とされる所以は、そんなところにもあるだろう。現に、ソロが細くなってしまってオケに負けてしまっている演奏も、ま、ま、ある。
ところがどうだろう。諏訪内さんの、その存在感の圧倒的なこと。特にこの曲のある種のハイライトでもある冒頭のヴァイオリンソロが奏でる「ソーラーレ」。この3つの音が醸し出す(べき)孤高感、緊張感はもはや異次元たるもので、そこそこの存在感程度では完全に「音に音楽が負ける」。しかして、それを「弾き込むこと」で打開しようとすると、今度はどこか情熱的な音楽になってしまい、これまたシベリウス世界とはかけ離れてゆく。
その点、諏訪内さんは完璧であった。寒々とした中に凛と筋の通った、姿勢の正しさが垣間見れる。かつ、それがオーケストラと絶妙に調和する。その「まさに協奏曲」たる光景は、3楽章の最後の音まで続いたのだ。
諏訪内晶子さんという音楽の、芸術性の真骨頂を垣間見た。

交響曲第2番
「漣(さざなみ)が聞こえる」とは新田ユリ氏が著書でこの曲に添えた言葉だが、そんな冒頭の弦楽器から始まるこの曲も、前出の例に漏れることのなく、木質の温もりのある音楽であった。
ところどころ、「お?こここんな描き方するのか?」といった部分もあったにはあったが、それは意表をつくというほどのこともなかった。ただ、個人的に持っていたこの曲のイメージよりは、少し疾走感が強い演奏だったように思う。
3楽章のスケルツォを抜けた先の4楽章の、あの多幸感はまるでブラームスの1番を想起させるようでもある。しかし、ブラームスのような全幅の煌びやかな喜びではない。大いなる自然の摂理の中に自分の存在を肌で感じることのできるような密やかな悦びである。
ホールに響き渡った最後の音の、空の彼方への仕舞い方も含め、完璧だ。

アンコールのノクターン、これまた凄かった。その音の最後に向かう減衰の仕方、全てが消え去ってからの長めの沈黙もまた、見事であった。

どうしてこのような音が生まれるのだろう?どうしたらこのような音が生まれるのだろうか。
誤解を恐れずに言えば、音楽は作曲者と演奏者の共同作業によって生み出されるものであるが、そのどちらもがフィンランドという地にあって初めて生まれ得る音空間というものが、この世にはあるようだ。



スウェーデン放送合唱団×都響、モツレク

舞台の上で音は生まれ、そして、そこで永遠に失われる。
たとえ録音していたとしても、ホールいっぱいに響いた音は、二度とそこには戻ってこない。


スウェーデン放送合唱団
東京都交響楽団
ペーター・ダイクストラ指揮

リゲティ:ルクス・エテルナ
シェーンベルク:地には平和を
モーツァルト:レクイエム


リゲティからして「人間の声というのはかくも美しく在り得るのか」と感嘆する。ディミヌエンドの、一本の線が描きだす線の美しさ。小さくても奥行きの深い深い音像。まるで、等伯の松林図屏風を見ているかのような。観客の咳でさえ憎く感じるほどの音空間。
そのまま、「これは今年のサントリー芸術財団サマーフェスティバルの続きか?」とでも思ってしまう。
まさか1曲目からこのような事態になるとは、予想外である。

ふんわりとしたクッションのような、古典的な空気を持つシェーンベルク。少しオケが引き気味だったか。

からの、モツレク

「奉献誦から先は、ジュスマイヤーの作だし、前時代的だし、好まない」とか「奉献誦から先は演奏しない」とかいう人もちらほらいるが、それには個人的には否定的。
ラクリモサまでで終えてしまうのは音楽的に少し中途半端な感じもあるし、奉献誦から先もモーツァルトのメモ書きを元に作られているわけで、そしてそこがいかに魅力的な音楽であるか、というのはむしろ指揮者の解釈や表現力が生み出すべき問題である。そこを放棄するということは、自分たちの表現力の無さを単に露呈するだけだ。

その点、今日のモツレクはまさに教科書に載せたくなるくらいの、「モーツァルトかくあるべき」という見本のような演奏であったように思う。

この音楽はベートーヴェンの第九ではない。マーラーの8番でもない。レクイエムであって、ミサ曲なんだ。その根底にあるものは哀悼であり、慈愛であり、信仰なのであり、であるべきである。

バロックティンパニや、ビブラートをかけない古典的な演奏スタイルのオーケストラは、ある意味、意図して強い響きを殺してきているが、それでもコーラスとのバランスはなかなか抜群であった。強いて言えば、テノールソロがめっきりと線が細い。

その「強く響かない」古き良き音は、虚空への消え方も早い。

あぁ、待ってくれ。俺の耳からそんなに早く消えていかないでくれ、音よ。

東京藝術大学美術館「うらめしや〜冥土のみやげ」

芸大美術館の幽霊画展、なかなかのボリューム。

入ってすぐは三遊亭円朝関連作品が並んでたりして「こんなもんか」と思ってたら、、まず歌川広重の「瞽女(ごぜ)の幽霊」で恐怖のどん底に突き落とされる。その後も幽霊画が続き、かの有名な円山応挙の幽霊画で、少し落ち着く。美人画だ。

と思ったら後半に入って歌川国芳の、幽霊というか「物の怪」が出てきたり、牡丹灯籠や番町皿屋敷、四谷怪談などの名作怪談噺をストーリーを追いながら絵画を追ったり。視覚的に情報が入るもんだから恐怖もひとしお。とどめに一龍斎貞水の高座「四谷怪談」の映像作品がたっぷり20分。

恐ろしさに終始するのかと思えば、そこはそこ。最後に「うらみが美に変わるとき」と題して、恐ろしさの中の美しさを追求する。最後の最後に登場する吉川観方、鏑木清方、松岡映丘による3つの絵画に描かれる女性幽霊の姿の美しさたるや。

ヘレン・シャルフベック

ヘレン・シャルフベック。19世紀末〜20世紀に活躍したフィンランドの女性画家。印象派のようでもあり、象徴主義のようでもあり、ラファエル前派のようでもエコール・ド・パリのようでもキュビスムのようでもフォービスムのようでもある。 ストラヴィンスキーばりのカメレオン作家。

とはいえ、19世紀末から20世紀初頭というのは、そのような美術史的側面に限らず世界のありとあらゆるものに変化が起きた時代 である。音楽でいえばドビュッシーからシェーンベルクに至る時代なのである。

感受性の強い人であればそのようなカメレオンになったとしても、無理はない。それを絵画というフィールドで後世に残るような絵を描き続けられたのは才能以外の何物でもないだろう。しかし「ヘレン・シャルフベックってこういう絵を描いた人」という説明は難しい。

悪い言い方をすれば「時代に翻弄された」とも言えるし、それはつまり「激動の時代と戦い続けた」ことの証左でもあろう。そして、やっとの思いで描きたかったものを描けるようになった時には、自らの死期がすぐそこまで迫っていたのである。

彼女にとって84年という人生の月日は短すぎたのかもしれない。

シュトックハウゼン「シュティムング」

大変に美しい。そして、たったの6人のヴォーカリストで奏でられている小ホールでの演奏であったが、それはそんじょそこらのオーケストラ作品を遥かに凌ぐほどの、壮大なスケールの音楽であった。

倍音というのは音波の物理的構造に由来するものであるわけだから、自然界には非常に多い事象であり、そこにフォーカスして表現するということは、自然を表現する作業そのものである。

反面、隅から隅まで儀式的な音楽。例えれば仏教の声明か、または北インド地方の音楽。その自然界性と儀式性からは、どこかアニミズム的な古代宗教的な色彩を帯びる。現代の音楽でありながら、遥か悠久の彼方でさえ彷彿とさせる。

そして古代らしい「陽」の印象もまた、色濃い。神秘的ながらも、どこか開放的な音楽。それは、今まで持っていたシュトックハウゼンという作曲家の音楽に対するイメージとは、また大きく違うものである。

解説もそうだが、とにかく構造が小難しい。人間の発音構造から始まり、曲の進行、奏者に委ねられる部分と、演奏ごとのヴァージョン違い。それはプロ中のプロがまる1ヶ月準備しないと演奏できないほどの、難解な曲であることは理解するが。

開演前の客席においても、さも知ったりといった面持ちで曲の構造やら作曲者の人間性、当時の作曲事情などを語らう人がいたのは、この作曲家ならではか。

しかし、そういった背景事情云々を超えて全体を包み込む美の姿を、こうも巧妙に描けるというのは大作曲家の大作曲家たる所以であり、それこそ唯一無二たる、なのであろう。


シュトックハウゼンという音楽の真価を見たような気がした。