ツィンマーマン「ある若き詩人のためのレクイエム」

サントリー芸術財団サマーフェスティバル2015、2日目。

B.A.ツィンマーマン「ある若き詩人のためのレクイエム」
〜ナレーター、ソプラノおよびバス独唱、3部の合唱、オーケストラ、ジャズ・コンボ、オルガン、電子音響のための、テクスト、様々な詩人、ラジオ通報およびラジオ報道に基づくリンガル(言語作品)

52歳で謎の自殺を遂げた、ドイツの作曲家ツィンマーマンによる「言語作品」。

「「言語的なもの」は、言語と音楽のあいだのいわば第三の地平線にある。一方が他方に支配されるのではなく、双方が徹底的に相互浸透する。合唱と電子音響、ノイズとモンタージュ、政治的事件のコラージュとナレーター、ソロ歌手、ジャズ・コンボ、オーケストラの諸行為が、この地平において出会うのだ。」(作曲者自身の作曲ノートより)

20世紀的なるものへのレクイエムというコンテキストの中で、ことばと音楽の関係性をリアーキテクトする。



ツィンマーマン「ある若き詩人のためのレクイエム」。個人的には、現代音楽の理解難易度の高さここに極めり、といった感あり。8トラック使用し、時に5つも同時に、しかし異なるタイミング、異なる速さで、異なる言語で語られるテクストとその字幕は、最早その内容への理解を前提としない。

マルシェル・デュシャンはレディメイドに芸術的意味論を与えたが、このレクイエムは既存の複数のテキストを一旦分解して、分解されたテクストの言葉をより大きな次元で再統合(Integrate)することで全体としての意味、「美」を追求する。

この再統合は単に分解されたテクストに対してだけではなく、そのピースは時にフリージャズでありビートルズであり、オーケストラであったりする。テクストのピースが意味論から解放された以上、純音楽とも言えるこれらのピースも意味論から解放した上で統合がなされるべきものである。

しかしこれはつまりは我々の前提理解として持っている「言語の持つ目的」「音楽が持つ詩情」を一旦解放させる作業であり、容易なことではない。統合された全体に個々のピースの意味論は常に侵食を繰り返す。それを受け入れれば全体を見失う。

例えればニーチェ哲学を吸収する作業のような、あの一旦様々な観念を解放する時に訪れる頭痛を、どこか彷彿とさせる。

しかも、最後には「Dona nobis pacem」(我等ニ平和ヲ与エ給エ)を全合唱に乗せて曲は締めくくられるのである。最後にテクストに意味が呼び戻されるのである。その言葉の前に流れる民衆のデモの音といい、作曲者は最後には言葉の持つ力を確信していたのではないだろうか。

我々は、音楽と言語の狭間にある第三の地平線を見据えていたのではないのだろうか。作曲者は最後に言語に祈りを託したのか。長く続いた暗闇の果てにようやく辿り着いた光の姿は、果たして我々が欲したものだったのだろうか。謎は深まるばかり。





舞台「転校生」

平田オリザ作の舞台「転校生」を見た(以下、ネタバレを含みますのでご注意ください)。

「なんという、残酷な話なんだ!」


終わった後に出た一番最初の言葉。

同時多発会話は、前週にサントリー芸術財団サマーフェスティバルでツィンマーマンの「ある若き詩人のためのレクイエム」を見た人間としては、さほど抵抗はない。

サントリー〜の影響からか、先週来どうも「声」というやつを意識することが強い。それはToneとしての「声」であり、ConversationなりIntercommunicationなりとしての「声」である。声は意味と音の両方を兼ね備えている大変に複雑な人間の機能であり、Toneとしての声が無限の連続的な階調を持つからこそ、そこに意味を超えた無限の表現可能性を持つのである。


舞台「転校生」。

単純にストーリーをぱっと眺めていれば、ただ女子高生が集まって他愛のない話、文化祭だとか、部活だとか、進路だとか、恋愛だとか結婚だとか出産だとか、ただ漠然と話して終わるだけのようにさえ見える。

ただ、文化祭で出す「世界の高校生」を題材とした調査結果だとか、フナの解剖だとか、読んだ本としてのカフカの「変身」だとかが、背景にじわりと印象に残る。

しかし、どうしてもその女子高生同士の会話に「奇妙なまとまり」と「一種の空々しさ」がまとわりつくのだ。「本当の高校生は、もっと友情と恋愛のバランスや、いじめや、ネットとの付き合いとか、いろんなものに苦悩しているはずじゃないか?どうしてこんなにも空々しくみんな仲良しを描くのだろう?」と。

3場あたりから、その素朴な疑問は徐々に確信へと変わっていく。演技そのものにも、どこか稚拙さが浮いては沈みを繰り返しているのだ。本当に浮き沈みする。ぐっと真実味を増すところと、空々しさが、同時多発会話の中に見え隠れしていくのだ。

そこで思うのだ、「この子たちは『女子高生を演じている女子高生』を演じているのだ」と。

最終場、「今日はなんかみんないつもと違っていた」という台詞に、まさに全ての仕掛けがうまく噛み合ったような、不思議な感触を得るのである。


それでは、その空々しい演技をする女子高生たちを生み出したものは一体何だったのかというと、それは紛れもなく「転校生」の存在であったのである。転校生がやってきたことが、その空気感を生み出したのである。

まるで、カフカの「変身」で、ある朝気がかりな夢から覚めたら巨大な毒虫になってしまったグレゴール・ザムザ、彼の姿をみた家族のように。

カフカの「変身」…そういえば、その転校生も転校してきた理由を「今日、朝起きたら突然この学校の生徒になっていた」と述べた。グレゴールと一緒じゃないか。

であれば、結末はどうなる?舞台上では「変身」の最後も述べられている。グレゴールは最後に死んでしまう、と。


「転校生」の舞台は、転校生と元からいる生徒との間でしっかり手を握り、「ずっと一緒だ」というような未来への不安以上の期待と希望を胸に、幕は閉じる。

だがしかし、転校生自身がグレゴールの具現だとすれば、その将来は暗いものだ。グレゴールは最後に死ぬのだから。

この先で起きる、まだ見ぬ恐ろしい悲劇を予感しながら、希望の光を灯すのである。
そこに、このお話の身も張り裂けそうなほどに残酷な姿を、見るのである。

なんという、残酷な話なんだ。


残酷だが、美しい舞台だった。